プロヒーロー勝×新米教師のデ
アーマー渡す前の勝デ未満小話です。
その日の夜の空気は、仕事で大失敗を起こした昨日よりさらに重たかった。
六月の終わり、梅雨の湿気が街灯の明かりを滲ませている。コンクリートに反射した水の膜が、歩くたびに僕の靴の裏で鳴った。教師になって三ヶ月。いくら自らが通っていた母校といえど、通うのと働くのでは全く違うことなんて、心に据えていたはずだった。“慣れ”なんて一生来ないんじゃないか、と弱気になるくらい毎日覚えることの連続だ。昼間は学生たちの輝く日常の一員となっている以上、僕も青春の延長線にいるようで嬉しいところもある。しかし、その反動か暗い夜道へ一歩出れば、今日の失敗や明日以降の不安が頭の中で渦巻く。そうやって、僕はこの三ヶ月間地に足のつかない感覚が続いていた。
相澤先生は「焦るなよ緑谷」と、かつて個性を思うように扱えなかった僕へ投げかけた言葉と真逆のことを言って僕を励ました。頭ではわかっている。新人の僕が、大ベテランの他教師と並んでなんのミスも無くできるような、簡単な仕事ではない。それなのに、いざ自分の理想と現実が違う時、僕は僕に落胆して勝手に落ち込んでいるのだ。帰り道、ネクタイを少し緩めた指先が微かに震える。慣れない革靴と同じように、僕は日々自らの心がすり減っていくのを感じていた。
アパートに帰る最寄駅に降り立つと、電車に乗る前は降っていなかった雨が降り出していた。僕はリュックの中の折り畳み傘を探したが、生憎探せど見つけることはできなかった。途方に暮れて雨の止み間を待っていると、駅の道路向かいに佇む中華料理店の赤い暖簾が目に入った。いつも目には入っていたはずだけど、今日の今日まで認識できていなかったと思う。僕はガラス戸の向こうから漏れ出るオレンジ色の光りに、吸い寄せられるようにフラフラ近づく。
「いらっしゃい」
僕がガラス戸を開けると、店主の低い声が油と湯気の奥から響いた。カンカンと中華鍋にお玉が当たる音とともに、漂う香辛料の匂いが僕の鼻腔をくすぐり、背中から押し寄せる湿った空気を押し返してくれた。僕は雨が吹き込まないようにガラス戸をきっちり閉めて中に入る。
店内は、テーブル四つにカウンター五席。壁のカレンダーには定休日の水曜日と隔週の木曜日に赤いバツがされており、隣には色あせたグラビアアイドルポスターが貼られていた。店内のBGMにはどこかで聞いたことのある、一世代前のJ−POPの中国語カバーが流れている。聞き覚えのあるメロディなのに、言語が違うからか頭に入ってこない。「ウォーアイニー」とサビで男が熱唱しているから、愛の歌だということだけわかった。
僕はカウンターの端に座り、メニューを開いた。店員さんがグラスに注がれた水を僕の前に差し出すと「ご注文は」という顔で待っている。まだメニューを開いて間もないけれど、焦った僕は1ページ目に写真付きで載っていたそれの名を、幼馴染の顔を思い出しながら無意識に声に出していた。
「麻婆豆腐定食ください」
声を出した瞬間、どこか遠くから自分の声が聞こえるような感覚がした。初めて入るお店に、意識が少し浮いているのかもしれない。
グラスの水に口をつけながら、メニューを戻すと隣のテーブルから笑い声が聞こえた。スーツ姿のサラリーマンが二人、ビールを片手に話し込んでいる。
「マジよマジ。一説によると人とバナナは遺伝子が五十パーセント同じなんだって!」
「嘘つけ、どこ情報だよ」
「なんかのネット記事で見た。どこかのお偉い方の研究」
「曖昧〜……じゃあ俺ら、半分バナナってことか?」
「そういうこと!」
二人は何が面白いのかわからない話題に顔を真っ赤にして笑い転げると、瓶ビールの追加を注文してさらに顔を赤くさせるようだった。僕は視線を彼らから戻すと、カウンターの上に置かれた週刊誌が目に入った。厨房からの油や湯気でやや湿った紙面をめくると、下世話な芸能ニュースにいくつか混じるヒーローの話題。僕はそれらを斜め読みしながらページを捲ると、料理解説の1ページに見慣れた丸いシルエットを見かけて手を止めた。
《ファットガムの一口メモ Vol.97:焼きそばパン》
どうやら料理にちなんだ一口メモが毎週載っているようで、100回目も目前のようだ。いくらヒーローオタクの僕でも週刊誌のお料理コーナーまではチェックしていなかった。さすがファットガムの“一口”で、もはや料理解説より一口メモの方が文字数が多い紙面に僕はつい笑ってしまった。
一口と言えば、この前かっちゃんから急にメッセージが来たのを僕は思い出した。『お前の写真、いつも一口食ったやつだな』だって。どうやら僕のSNSに載せた写真を見たらしい。僕は「我慢できなくて食べちゃうんだよ」と返したけど、かっちゃんからそれ以上追撃のメッセージも無くそこで僕らの会話は終了した。かっちゃんはなぜかそういうところがあって、一ヶ月に一回くらい、僕になんの用も無いのにメッセージをくれた。それでいて会話を膨らませようという気はないらしく、僕らの会話はいつだってワンターンでエンドだ。
《――焼きそばパンっちゅうんは、パンと麺が互いの領土を侵し合う、まさに奇跡やねん。
どっちも炭水化物やのに、どっちも引かへんし、ケンカもせぇへん。
ただ包み合うんや。
焼きそばパン食べるとき、俺らは主食と主食を同時に口ん中入れてるわけや。
それは一見ムチャに見えるけど、そこには愛があるんやで。
焼きそばパンが成り立つんは、パンと麺が互いにちゃうもんやからや。
もし同じやったら、あの幸せな出会いは起きへんねん。
同じパン屋に並んだ奇跡を、どうか大事にしてほしいわ。――》
「お待たせしましたー」
コラムを読み進めていた僕の斜め前に、店員がカウンター越しに麻婆豆腐定食を置いた。六角形の中華皿に赤く照るソースから湯気が立ちのぼり、置かれた衝撃で豆腐が小さく揺れていた。異国の香辛料の香りが鼻腔をくすぐる。匂いからして、どうやらそこまで辛さは無いようだ。僕はレンゲでひとすくいしてそのまま口の中へ放り込む。
「うまっ」
思わず呟いた声はサビで盛り上がる愛の歌にかき消された。辛さの中に、旨みを感じる程よい味付けに、先ほどまでの憂鬱などどこへやら、僕は元気に動き出した胃を慰めようと白いご飯をかき込んだ。一口抉られた白いご飯には麻婆豆腐のラー油がついてほんのりオレンジ色に輝いている。僕は思い出したように写真を撮ろうとレンゲを皿の端に戻してスマホを構える。画面の中には、完璧に「一口食ったやつ」が写っていた。
写真を見たかっちゃんは、なんて言うかな。また、連絡来るだろうか。「しょうがねえな」と呆れたように言うかっちゃんが、僕の想像とは言えあまりにも優しく笑うものだから、少し気恥ずかしくなって僕はSNSにあげるのをやめた。
隣のテーブルでは、まだサラリーマンたちが盛り上がっている。
「バナナだったら昨日の発注ミスもしょうがねえよな。むしろ賢い半バナナじゃん?」
「いや、それはお前、腐りかけ半バナナだよ」
また弾けた笑い声を聞きながら、僕はワイシャツの袖を捲り上げて目の前の麻婆豆腐に対する気合いを入れた。
市民に愛された中華屋の店主も、飲んだくれてくだを巻く企業戦士も、雨に降られた新米教師も……そしてチャートを急降下した口の悪いプロヒーローだって、きっと悩みや不安はある。それでも乗り越えて進んでいく僕らは、半分バナナにしては上出来なんだ。
かっちゃんと僕が完全にバナナだったら、同じエクアドルのバナナ畑で、同じ木の房で育つのだろうか。同じ船で日本に運ばれて、スーパーでも隣に並んで売られるだろうか。僕はそんなことを考えて一人笑いながら、残り一口になったご飯を口に運びグラスの水を一気に呷った。
隣に立つことが出来なくなった僕に対して、寂しいと思ってくれる君を痛いほど知っている。そして差異を畏れるほど、僕らはもう子どもではない。
伝票とともにピッタリの現金を店員に手渡し、僕は店を後にした。ガラス戸を閉じれば店内の賑やかさと一変、雨上がりの静かな駅前が待っていた。
僕はスマホのメッセージを開いて先ほど撮った写真を送る。『おいしい麻婆豆腐のお店を見つけたよ』もちろん送り先は僕の幼馴染だ。送って間もなく、端末から軽快な通知音が鳴った。
『また一口食ってんな』
「はは、レスポンス早」
僕は文字を見ただけで、呆れ声のかっちゃんの声が聞こえてくるようでつい笑ってしまう。僕らがみんな半分バナナだと思えば、君がヒーローで僕が教師でも、違いなんてちっぽけなものなのかな。それでも、同じところに行きたかったと思うのは僕の贅沢な望みだ。
会話のターンは僕にある。僕がなんて返事をすれば、かっちゃんは返してくれるかな。「しょうがねえな」って思いの外優しく笑う君が、僕の想像の中だけなのか、僕はかっちゃんに会って確かめたかった。湿った地面で僕の靴の裏がリズミカルに鳴る。アパートに帰る僕の足取りは、もう軽くなっていた。
一口だけ、君に近づく