太陽の行き着くところ

プロヒ勝×教師一年目デ
CP未満でデキてない
アーマー渡す前です

 

 

 

 

 鉄筋コンクリート製アパートの二階、自らの部屋のドアノブを開けた僕は部屋の中から香る柑橘系のさわやかな香りに首を傾げた。外の冷気を部屋の中になるべく入れないよう、素早くドアを閉めると部屋の中から――いや、正確にはバスルームの中から「おけぇーり」と大きい声がした。どうやら香りの原因もそこにあるらしい。
 かっちゃんは雄英卒業後華々しくプロヒーローとしてデビューすると昼夜問わず忙しくしていたし、僕は教員免許取得のため、まるで最初から何も無かったように一般人として大学生活を送っていた。全く関わりの無くなった幼馴染が、一緒に住むことになったのは今年の初夏――僕が雄英教師として働き始めて数ヶ月後のことだ。一緒に住むというより、かっちゃんはきっと東京にも自分の家があるのだけど僕の部屋に時々住んでいる、というのが正しい。僕の住むアパートは単身者向けだから部屋は狭いし、セキュリティも万全とは言い難い。でも、何故かウィークリーマンションを借りるでもなくかっちゃんは僕の部屋に入り浸った。勝手に増えていったかっちゃんの私物も今では「ここにずっといましたけど?」という顔で馴染んでいる。かっちゃんは変わらず昼夜問わず忙しく、僕は残業こそあれど規則正しい生活を送っていたから、帰宅時間が被ることはそう無い。それでも月に何回かこうやって僕の帰りを部屋で待つかっちゃんに慣れてしまったからだろう、僕は仕事の帰り道にアパートの数メートル前から自らの部屋を見上げる癖がついてしまった。電気が点いていると、いつもより速足になって帰った。
 社会人として働くからと勢い勇んで買ったはいいが、脱ぐのに時間がかかる革靴が今はうらめしい。もう少ししたらいつものようにスニーカーで通ってしまおうか、冬だからという理由で革靴とおさらばするのにちょうどいいかもしれない。スーツに似合うようなスマートなスニーカーは持っていないけれど、革靴では咄嗟の行動も制限されるようでそれも嫌になっている原因だ。僕は靴紐を解くため狭いアパートの玄関に腰を下ろす。僕の歪な手はかじかみ、紐を解く指先はなかなか思うように動いてくれなかった。

「まだそこにいたンか」
「かっちゃん、ただいま」

 やっと紐が解けた革靴を揃えて振り向くと、いつの間にか風呂から上がったかっちゃんが先ほどより強くそのさわやかな香りを纏わせて僕に近づいた。珍しく急いであがったのだろう、髪からは拭き切れていない水滴が廊下にぽたりと一滴落ちた。

「風邪引いちゃうよ」
「そんなヤワじゃねえ。てめェこそ、風邪菌入れんなよ。まっすぐ風呂行け」
「うん。学校でインフル流行り始めたし、そうするよ」

 僕がリュックとスーツのジャケットを脱ぎ始めると、かっちゃんは心得たと言わんばかりにバスルームの引き出しからバスタオルを手渡してくれた。「着替え……」と言いかけた僕を遮ったかっちゃんは、「置いとく」と一言返し僕の背中を押してバスルームへ押し込む。至れり尽くせりのかっちゃんに、僕はここ最近心臓の裏側がムズムズとするのを感じていた。
 バスルームに入ればさわやかな香りの正体が判明した。柚子だ。湯船に柚子が浮いている。僕は脱いだワイシャツを洗濯機に入れようとし、頭の中でかっちゃんの「ちげぇだろ!」の声が聞こえ慌てておしゃれ着用の洗濯カゴに入れる。その他の靴下や肌着を洗濯機に放り込むと、ようやく裸の僕は柚子が浮かぶ湯船とご対面した。シャワーで体を洗うと、僕は風呂場いっぱいに充満する甘酸っぱい柚子の香りを吸い込んだ。

「いい匂い……」

 僕は狭い湯船を目一杯使い、肩まで浸かろうと身体を沈めれば代わりに足首が外に出た。必然的に上を向くことになった僕の顔へ、天井から水滴が滴り落ちてきた。咄嗟につぶった目を開けると、天井に昇る湯気がまるで柚子のように黄色く見えた。

「着替え、ここ置いとくぞ」

 風呂場と洗面所を塞ぐ磨りガラスのドアの向こうから、かっちゃんが僕にそう声を掛ける。僕のクローゼットから着替えを持ってきてくれたようだ。あれ、今朝まで着てたパジャマでいいんだけど、わかったかな?まだ一回しか着ていないからあと二日は着ようと思っていたのに。

「ベッドの上のやつ持ってきた」
「あ、ありがとう! それです」
「他に洗濯するやつあるか」
「無い……あ、ハンカチ! スーツのポッケに入ってるかも」
「もう入れた」

 かっちゃんはそう言うと洗濯機に洗剤を入れてスイッチを押したようだ。洗濯槽に勢い良く水が注入される音が風呂場の中まで響いていた。僕はまた心臓の裏側がムズムズするのを感じた。もし身体の内部までシャワーが届くなら水圧でそのムズムズを刮ぎ取って欲しいくらいだ。

「そういや、なんで柚子風呂?」
「知らねェンか? 今日は冬至だ」

 「冬至かぼちゃもあんぞ」と言ったかっちゃんを、僕は磨りガラス越しのシルエットしか見えないけれど、得意げに笑う顔が想像できた。成人男性が冬至かぼちゃまで作ってしまう本気度合いに僕はつい笑ってしまった。別に馬鹿にしようとかそういうことではない。そう、なんでだろう。嬉しいのか、僕は嬉しいのかもしれない。耳聡いかっちゃんはそれが聞こえていたようで「悪りぃかよ」といじけたように呟いていた。僕はそれを聞いてハッと息を呑み「違う」とはっきり訂正した。ぼんやりとしたシルエットながら、さっきまで得意気だった薄黄色の頭がしょげていたように見えたんだ。

「食べるよ! 絶対!……だって嬉しいんだ」
「嬉しい?」
「だって、珍しいじゃないか。かっちゃんくらいの年で、いや、僕もだけど。そういう『冬至だから』とか、『正月だから』とかで何かやったりするの」

 僕はかっちゃんと同居する前の数年間、大学生活で一人暮らしをしていた日々を思い出していた。その四季折々を思い出そうとしても、実のところその境目はひどく曖昧だ。もちろん、冬はコタツを出し寒さを凌ぎ、夏は扇風機を出してはいた。季節を全く感じないという話ではない。しかし「今日は節分だから豆まきしよう」とか、「彼岸だから桜餅を食べよう」とか、そういったことは家族で暮らしていた時しかやらなかった。多分、ほとんどの一人暮らしがそうなのではないかと思う。

「そんなの、俺もだわ」

 洗濯機が水の注入を終了し、本格的に音を立てて回り始めたから聴き逃してしまいそうだったけど、かっちゃんは「でも」とさらに続けた。

「出久も居るから、こういうことにも目を向けるようになった」

 ――そりゃ一人だったら買わねェけど、今は『土用の丑の日』もウナギを買うかとか、『十五夜』だからつって月見団子買ったりするんだわ。

 かっちゃんが少し恥ずかしそうに、しかし至極当然だと言わんばかりにそう言うものだから、僕は磨りガラス越しにも関わらず直視出来ず天井を仰いだ。磨りガラス越しでこれだ。ドアが開いてなくて本当に良かった。かっちゃんと暮らし始めてもうすぐ半年近いけど、僕はかっちゃんが事あるごとに教えてくれるから、イベント事を大事にするタイプなのかなと思っていたのだ。一緒に暮らし始めてからだなんて初耳だった。
 気を抜くと忘れてしまう四季の移り変わりは、春夏秋冬でくっきり分けられるわけではない。梅雨の終わり時、夕方に遠くから聞こえるひぐらしの音は、夏の訪れを告げているし、ジャケット一枚では帰り道が辛くなった晩秋は、冬の到来を予感させた。
 「僕もだよ」と僕が言った声は、洗濯機の回る音に掻き消されたようで、かっちゃんは「肩まで浸かれよ」と言ってバスルームを後にした。僕はぷかぷか浮かぶ黄色の球体を二つ同時に湯船に沈める。浮力に従い浮いてくるそれは、同じタイミングでもう一度僕の目の前に現れた。僕はそれを見て、さわやかな柚子の香りをもう一度深く肺に吸い込んだ。この柚子と一緒だ。そう、同じじゃないか。「僕らずっと同じだったんだ」って街中の人に言ってまわりたい気分だった。きっとこの心臓の裏側にゆっくり育ったムズムズは、シャワーの水圧くらいじゃ刮げない、いや、刮いじゃいけないんだ。
 一人では見えない景色が、二人で居ると見えてくる。それは、スーパーの鮮魚コーナーのノボリだったり、駅前のフリーペーパーだったり、何気ないテレビコマーシャルだったり。それらの煽り文句に目を留めては「かっちゃんと一緒に」と僕も考えるんだ。
 風呂からあがるころには、アツアツの冬至かぼちゃが待っているのだろう。それを想像した僕は、堪え切れない笑いが喉の奥から漏れるのを感じた。

 

 

 

 

 

 太陽の行き着くところ