「ただいま! っはあ……間に合った……!」
玄関が開く音と共に慌ただしい声が廊下に響いた。私はその声に掻き消されたテレビの音量を一つ下げ、コタツにぬくぬくと入っていた腰を上げた。そのまま台所に向かい、鍋がかかったコンロに再度火をつける。一時間前に一度煮立った蕎麦つゆは生憎冷たくなってしまっていた。
「ただいま!」
「おかえり、急がなくていいから手を洗ってきなさい」
「うん……!」
鼻の頭を赤くさせリビングに駆け込んできた息子は、私の言葉に頷くとダウンを脱ぎながらダイニングテーブルの上に紙袋を置いた。最近行列が絶えない有名店のお菓子だとか、友達に美味しいと教えてもらった日本酒だとか。私は脱ぎかけのダウンを背中から抜き取ると、急いで来たのだろう出久がヒーロースーツを着たままだと気付いた。背中から抜いたダウンの感触は、いつもより少し硬かった。ヒーロースーツの上から着ていたせいだろう。私は軽くため息をつきながら、それをリビングのハンガーに掛ける。
「ねえ出久、先に着替えちゃったら? せっかくのお休みなんだから」
「うん……そうする!」
洗面所の方へ駆けていく背中を見送りながら、私は再び台所へ戻る。鍋の中では、さっきまで冷たかった蕎麦つゆが、ゆっくりと湯気を立て始めていた。
ふと、リビングのテーブルに置かれた紙袋に目を向ける。お菓子やお酒をわざわざ買ってきてくれるあたり、出久らしい。こういう気遣いは昔から変わらない。私が袋をそっと覗き込んでいると、脱衣所の方から「ふう、さっぱりした……!」と出久の声が聞こえてきた。
「お蕎麦、もうすぐできるわよ」
「うん!」
戻ってきた出久は、いつも我が家で着ているスウェットに着替えていた。いつもは教師としてのビジネススーツ姿や、ヒーローとしてのアーマー姿が当たり前になっているせいか、こうして家の中でくつろいでいると少しだけ幼い頃の面影が残っているような気がする。
私が蕎麦を茹で始めると、出久はこたつに入ってテレビをつけた。テレビでは年越しの歌番組が佳境に入っており、今年も残り時間が少なくなったのを実感する。ふと、出久の足元を見ると、白地にオールマイトのイラストがプリントされたスウェットのズボンを履いていた。……それを見た瞬間、私は懐かしい記憶を思い出した。
「ねえ、出久」
「ん?」
割箸を取り出していた手を止めて、出久がこちらを振り向く。
「覚えてる? 毎年サンタに『個性が欲しい』って手紙書いてたのに、そう書かなくなった年のクリスマスのこと」
一瞬、出久の目が丸くなった。考え込むように眉を寄せ、こたつの上で指を軽く組みながら、ぽつりと呟く。
「……覚えてる」
「じゃあ何が欲しいの?って私が聞いたら、出久はオールマイトの光るパジャマが欲しいって言ったんだよ」
私が微笑みながらそう言うと、出久は恥ずかしそうに頬をかきながら笑った。
「うん……あれ、かっちゃんとお揃いだったんだよね」
そう、小さな頃の出久は、かっちゃんと同じものを持っていることがとても嬉しそうだった。あの時はまだ、個性がなくても、ただ純粋にかっちゃんの隣にいることが嬉しかったんだと思う。
私は鍋の火を弱めながら、優しく言葉を継いだ。
「でもね……私、今になって思うのよ。あの時のあなたは、ただお揃いのパジャマが欲しかっただけじゃなくて……」
出久はじっと私を見つめている。私は鍋から目を離さずに、静かに続けた。
「……かっちゃんと、同じ夢を見たかったんじゃないかって」
背後で、出久の小さな息を呑む音が聞こえた。
「あなたは、あの頃からずっとヒーローになりたかった。個性がなくても、諦めなかった。でも、それだけじゃなくて……かっちゃんと同じ道を歩きたかったのよね」
言葉にしながら、私は出久の『今』の姿を思い浮かべる。
「また、お揃いになれたのね」
そう言うと、出久は驚いたように目を見開き、それから「……うん。そうだね」と目尻から光る物を零しながら笑った。幼い頃、かっちゃんとお揃いのパジャマを欲しがって泣いた出久が、今はその幼馴染と同じヒーロースーツを身に纏い、夢を叶えて同じ街を守っている。
――サンタが本当に来てくれるなら、あの頃私が一番欲しかった。出久に、個性をプレゼントしてあげたかったのだ。
でもあの子はサンタなんか来なくても、ヒーローの夢を諦めなかった。そして、一度途切れた夢を、かっちゃんが決して諦めさせなかった。私はリビングへお盆を持ち、コタツの上に蕎麦を盛った二つ分のどんぶりを置く。
「はい、お待たせ。年越し蕎麦よ」
「……ッ美味しそう!」
「いただきます」と勢いよく箸を取り蕎麦をすする息子を見て、私も同じように蕎麦をすする。テレビはすでに華やかな歌番組を終え、全国各地の神社仏閣で今か今かと新年を待つ人々の映像へと切り替わっていた。出久は夜中から並んでいる参拝客を見ながら「かっちゃんとね、明日約束してて」と一緒に帰省した幼馴染と明日初詣に行くのだと嬉しそうに話している。鐘撞堂に登る和尚が撞木を大きく引いて、何度か鐘を鳴らすのを聴きながら二人して蕎麦をすすっていると、いつの間にか年は明けていた。