「エスパーバクゴー?」
「エスパーバクゴー?」
目の前のラーメンを味変しようと、いつもの癖で卓上のランチラッシュ自家製ラー油を手に持ったまま僕は心操くんに間抜けに聞き返した。相澤先生に用があった心操くんが雄英にやってきたタイミングで、気を利かせてもらったのだろう相澤先生に「お前ら久しぶりだろう、一緒にメシでも行ってきたらどうだ」と言われたのだ。どこか外にでも食べに行こうかという僕の提案の前に、心操くんは「久しぶりにランチラッシュのメシ食いたい」と言って目を輝かせた。心操くんがいいならそれで良いか、と生徒たちが授業中の空いた時間帯に食堂へやってきたのがつい先ほどの話。
食べ始めた僕らの話題といえば、同期のヒーローたちの話だ。物間くんの居る事務所とチームアップして解決した事件の裏話なんかを聞きながら、楽しく食事をしていた僕らに心操くんが「そういえば、お前の幼馴染」と言って先の言葉を言ってきた。
「エスパー……ちっちゃくなってカバンに入るとか?」
「いや、違う」
古いネタ知ってんな緑谷、と心操くんが乏しい表情筋を珍しく動かしてそう言った。僕は自家製ラー油を少し入れすぎて赤く色づいたラーメンスープに、渦中の人物の瞳を思い出して軽く笑った。かっちゃんの目ってラー油だったんだ、辛いの好きだもんなあ……なんて当のかっちゃんが聞いたら「何言ってんだ」って怒られそうなことを考えながら。
「爆豪がエスパーなんじゃないかって噂」
「かっちゃんの個性は爆破だよ」
「個性とかじゃなくて、エスパーだって」
超常社会において、個性持ちと「エスパー」の違いがわからない僕は首を傾げてラーメンを啜る。超能力が使えるって話なら、僕のお母さんの「ちょっとした物を引き寄せる個性」だって昔の人が見たら「エスパー」だと思うだろう。勢い良く入れすぎたラー油が気管に入り、咽せてしまった僕を見兼ねた心操くんが水の入ったコップを僕の方へ滑らせた。これ幸いと冷たい水で喉を潤し、涙目になった僕に心操くんは「大丈夫か」とティッシュまで差し出してくれた。
「っ……ゲホ、なんで、そんな話になってるの」
「『あれはもう心が読まれてるとしか思えない』――先日発生した新宿一斉摘発の場に居た警察官から出た証言ではさらにこう続く『未来が視えてるんだ、サー・ナイトアイの再来だ』大・爆・殺・神ダイナマイトはエスパーなのか⁉︎」
「何それ」
「週刊誌」
心操くんは今どき美容室でも見ない紙媒体の雑誌を僕に寄越した。オカルト誌じゃなくて週刊誌というところが信憑性の無さを物語っており、誰も信じていないだろうことは明白だった。こんなの話題がよっぽどない時の一過性の娯楽だ。それを僕の大事な幼馴染を使ってされているというところが、少し、いやだいぶ頭に来るけれどヒーローも人気商売なところがあるからある程度はしょうがない。
「信じてる人いないよ」
「俺もそう思う」
ずるずるとラーメンを啜る僕は早々に食べ終わった心操くんに、週刊誌のページを閉じて返した。
「俺もそうは思うんだが、新宿の現場に居たんだよ、俺。爆豪と別の部隊だったけど」
「そうだったんだ。心操くんの情報は載ってなかったよ」
「俺は個性的にも、初見殺しだから……基本的にヒーロー側にも最低限に情報が回るんだ」
「なるほど」
心操くんは意を決して口を開くと、先ほどのかっちゃんが書かれた箇所をまた開いて言った。折り目がついたそのページを捲るのは慣れたもので、もしかしたらこの話が本題だったのでは無かろうかと僕は思った。相澤先生への用事ってなんだったんだろう。
「爆豪には才能がある」
心操くんの乏しい表情筋はまたも珍しく動かされていた。緊張と興奮。同窓の友達を疑いたくはないが、大人になると昔の友人から怪しい誘いを受けることは多々あると聞いたことがある。もしやこれもそうなのか?まさか心操くんが……とショックを受けている僕が「何の」と呟いた声は掠れて随分小さかった。
「早押しクイズの才能だ」
僕の右手から落ちた箸がラーメンどんぶりの端にぶつかり、そのまま椅子の下まで転げ落ちた。その際に飛び散った赤いスープは無情にも、僕のワイシャツの白い左胸に一つの染みを滲ませた。
雄英高校の普通科には二十年連続出場記録を途絶えさせていない――正確には七年前の全面戦争時の開催中止を除いての話だが――あるイベントがあった。心操くんが相澤先生を訪ねた理由もそれだった。僕は雄英に通っていながらそれを全く知らなかった。いや、大会自体は僕だって何度も見たことがある。家族が食卓を囲んで観ている姿は年末の風物詩とも言える。「普通科最大の見せ場なんだよ」とは心はいつも普通科のみんなと共にあった心操くんの言葉だ。
『全国高校対抗早押しクイズ大会』
個性使用不可のこの大会の始まりは、超常黎明期より前に遡る。三人一組となり純粋な知識のみで勝ち上がる、クイズという地頭と発想力、そして何より早押し力が試されるその大会に、全国有数の偏差値を誇る雄英が出ていないわけがなかった。地区予選から始まるその大会に、今年も雄英高校普通科の各学年から一名選抜されて参加するらしい。
「毎年普通科のOB・OGが特訓に付き合ってくれる、いわゆる『プルスウルトラクイズ合宿』があるんだ。それが今年はどうしても都合がつかないらしくて」
「それで、心操くんが呼ばれたの」
「ああ、俺だけってわけじゃないんだけど……多分緑谷がいるから」
緑谷のクラスにいるメンバーだから、と続けた心操くんは来賓用出入り口にあるスリッパからコスチュームの靴へ履き替えている。そう、雄英に赴任した僕が初めて受け持ったクラスは普通科だった。プロヒーローではない僕が教えられる科目は、普通科が一番単位数が多いのだ。一応ヒーロー免許は持ったままではあるけど、教師生活一年目として右も左もわからない中で普通科の子たちと向き合う時間も悪くないと思った。心操くんのようにヒーロー科を受験したけれど、落ちて普通科に入った子もいる。ヒーローに憧れる気持ちも、それを諦められない気持ちも、僕にはとてもよくわかるから。
「とにかく、爆豪に聞いてくれないか」
「いや、僕に言われても困るよ……」
曰く、早押しクイズは先読みの力が大きいらしい。問題文を読み手が全て言い切る前に、予測して答えを導き出す。心操くんによれば、かっちゃんは普段から無意識にそれをやってのけていると言う。いや、かっちゃんはやればなんでもできる才能マンで、もちろん早押しクイズだって得意だろうと僕も思う。しかし心操くんが太鼓判を押すほど精通していただろうか、と考えると付き合いの長い僕はそう思えなかった。
そもそも、高校卒業以降まともに連絡を取り合っていないのだ。今更どうやってかっちゃんを誘えば良いのかと、僕は心の中で頭を抱えた。
「緑谷からの連絡なら、地球の裏側からでも駆け付けると思うけど」
心操くんは伸びてきた髪を撫で付けて捕縛布を巻き付ける。在学中よりさらに伸びた髪の毛はかつてのイレイザーヘッドを彷彿とさせた。
僕は「そうかなあ」と恨めしそうな声を出して心操くんを見遣れば、その親指を天へ突き立て颯爽と去っていった。
「そうかなあ……」
誰も居なくなった来賓出入り口でポツリ同じように呟くと、僕の声を遮るように授業終了のチャイムが鳴った。
*
結論から言うと、かっちゃんは地球の裏側――は言い過ぎだけど、出張先の福岡から駆け付けてくれた。とんとん拍子とはこの事か?ってくらい、まるで僕から連絡するのがわかっていたみたいに。だって連絡したのは午後二時過ぎなのに、四時前には「雄英の近くにちょうどいるぞ」っておかしくないか。
確かにかっちゃんの事務所は東京だから、新幹線で帰る途中で実家にお土産を置きに寄った……そんな時に僕から「ちょうど」連絡が来たんだって。
おかしくはない。決しておかしくはないだろうけど、あまりにも御膳立てされているようで不気味だった。
用があるのは僕なのだからかっちゃんの指定するお店まで行くと提案したが、なぜかその後から既読がつかなかった。あっという間に終業時間になった僕は、一旦家に帰ってしまおうかとトボトボ帰路に着く。働き始めて一人暮らしを始めた僕は、雄英から徒歩十五分の二階建てアパートの一室を借りていた。いつもなら帰りにスーパーに寄るけれど、今日はかっちゃんとご飯行くかもしれないし手ぶらで階段を昇る。カンカンと響く金属の階段を昇りきると、一番端っこにある僕の部屋の扉の前に人影が一つ見えた。
「えっ」
そこにはヒーローコスチュームこそ着ていないけれど大・爆・殺・神ダイナマイトが立っていたのだから、びっくりしすぎて僕の肩からずるりとリュックの紐が外れた。
「おせぇ」
「なっ……なんで」
「てめェが呼んだんだろ」
「いや、そうだけど。いやいや、なんで僕のアパート知ってるの? というか、来るならちゃんと連絡してよ!」
「おばさんに聞いた」
かっちゃんが言う「おばさん」が僕のお母さんであることは明白で、そういえばお土産を実家に置いてくるって言ってたっけ。その時か……と推測してしまった。お母さんなんで勝手に教えてるんだよ。
「それじゃあ近くのお店にでも移動する? 僕ちょっと着替えて来るから」
「出久の部屋でいいだろ」
「え?」
「ん」
僕の目の前に突き出されたビニール袋に驚き、ただただ見ることしかできない僕に焦れたのかかっちゃんは袋からその手を離した。「わ!」と僕が慌ててそれを掬い上げれば、中身は博多名物と書かれた箱が入っている。ベージュ色のスープがパッケージ全面に押し出されたそれは、豚骨ラーメンのレトルトセットに違いなかった。
ああ、これを僕と食べようってことか……と僕は合点がいった。まさか僕にお土産を持ってきてくれるなんて、かっちゃんも僕も正しく年と共に普通の同級生になってきたじゃないか。
「かっちゃん福岡でラーメン食べてきてないの?」
「食う暇なんて無かったわ」
ふうん、そうなんだ。静岡に寄る時間はあるのに?とは口にしなかった。にやける口もとを隠すように、僕はかっちゃんに背を向けて部屋のドアを開ける。「狭いところだけどくつろいでね」と言う前に「せめえ」と言われてしまったが、それでも良かった。
『緑谷からの連絡なら、地球の裏側からでも駆け付けると思うけど』
昼間の心操くんの言葉が頭の中でリフレインしている。違う道を進むことを決めたのは僕で、みんながプロヒーローとして一足先に社会に出た時、知らずのうち心にストップをかけていたみたいだ。とりわけ君には、連絡なんて出来なかった。
「お前昼もラーメン食ったんか」
スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛けた僕に、かっちゃんはそう声をかけた。僕の部屋はいわゆる1Kの間取りだ。リビング兼寝室のドアは開いたままだったから、かっちゃんは台所で鍋の準備をしながら僕に言ったのだ。「やめとくか?」と言うかっちゃんに、僕は「醤油ラーメンだったから」と力無く答えた。もしかしたらかっちゃんは、本当にエスパーなのかもしれない。
*
かっちゃんが週刊誌で「エスパー」として特集されていたことは伏せながら、僕は昼間に心操くんと話した内容をかい摘んでかっちゃんに話した。『全国高校対抗早押しクイズ大会』のこと、僕が受け持つ普通科の生徒が出場すること。かっちゃんには早押しクイズの才能があるらしいこと。毎年恒例の「プルスウルトラクイズ合宿」に来てくれる人を探していること。
僕がかっちゃんが硬めに茹でてくれた豚骨ラーメンを啜りながら説明すると、早々に食べ終えたかっちゃんが僕の冷蔵庫を漁りながら「わかった」と言った。心操くんといいかっちゃんといい、プロヒーローになると早食いになるのだろうか。そういえばエンデヴァー事務所でのインターンも昼休憩なんてあってないようなものだったっけ。僕が最後の一啜りで食べ切ると、先ほどのかっちゃんの言葉を麺と共に改めて咀嚼した。わかった?何が?と思いながらスープを飲んでいると、かっちゃんにもう飲むなと咎められた。
「この袋麺茹でて替え玉にしていいか」
「替え玉? いいけど」
豚骨といえば確かに替え玉。僕の冷蔵庫に麺だけ入っていたのは奇跡的だったが、もはやこの時のためにとっておいたのかと思える。二日前にスーパーで麺だけ安売りされていたのを買ったんだった。意外と隣に並ぶ別売りのスープが高くて、ケチった結果麺だけ購入した。かっちゃんに「スープねえのかよ」と言われて「買わなかった」と言うと、かっちゃんは信じられないと目で訴えてきた。なんだよ、いいだろ、これが僕だ。
僕の狭い部屋でキッチンに立つ君を、テーブルに座りながら見る。変な感覚だった。大学四年間は疎遠と言っていい仲だったはずだ。幼馴染って言ったって、僕らから「同じ学校」というラベルが剥がされたら、スーパーの陳列棚は別になるに決まっている。湯気を上手に吸わない換気扇に怒りながら、菜箸で小さい鍋をかき混ぜるかっちゃんを見て僕の口は勝手に彼の名を呼んだ。
「かっちゃんって……」
「あ?」
完全に無意識だった。何を言いたいわけでもなく、僕はかっちゃんの名を呼んでいた。そんなこと正直に言ったら怒られそうで、僕は誤魔化すように早口で続けた。
「かっちゃんって、ケチャップ自分で作ってそう」
「アホか。ケチャップとマヨネーズなんて自家製するやついねえだろ」
「じゃあラー油は? 自家製?」
「ンなわけねえだろ」
かっちゃん、笑ってる。機嫌良さそうだ。僕は嬉しくなって取り留めの無い話を続けた。さっきの豚骨ラーメンと違って、僕が買った袋麺は太麺だから茹で上がりに少し時間がかかる。鍋に向かうかっちゃんはまだ菜箸を鍋の上に浮かせて茹で加減を見極めていた。
「かっちゃんの好きだったバンド、僕の大学の学祭に来たよ。二年くらい前の」
「まじか」
「僕も好きになっちゃった。アルバムも買ったよ」
「あー、去年出たやつか」
かっちゃんが左手にザルを準備して、シンクに片手鍋を移動させた。そのままかっちゃんが鍋を傾けて湯切りさせると、べコンと大きい音が響いた。シンクが熱湯によって変型した音で、思いの外耳障りな音のせいか僕とかっちゃんの会話は途切れた。どんぶりに残るスープは少し温くなってしまったけど、一つの袋麺を分け合った替え玉を僕とかっちゃんはまたものの数分で食べ切った。
「合宿の日取りわかったら連絡しろ」
さっきの「わかった」はこのことだったようで、ご馳走様でしたと手を合わせた僕は思わずかっちゃんからラーメンどんぶり、ラーメンどんぶりからかっちゃんとゆっくり二度見した。かっちゃんは「日取り」ともう一度言って僕の分のどんぶりを自分のものに重ねるとまたもやキッチンへ移動した。
「プルスウルトラクイズ合宿、来てくれるの?」
「……俺が行くってことはわかってんな? 緑谷先生」
至れり尽くせりで洗い物まで始めようとするかっちゃんに「洗い物は僕がする」と急いで立ち上がり近づくと、かっちゃんはシンクにどんぶりを置いて急に振り返った。僕は勢い余ってかっちゃんの胸元に顔をぶつけ、元々高くもない鼻がさらに縮んだくらいには痛かった。声にならない痛みに涙目で顔を上げる。高校時代より開いた身長差に僕が自然とかっちゃんを見上げると、最近は液晶越しに見ることが多くなった幼馴染の不適な笑い顔がそこにあった。
「一位だ。ただの一位じゃねえ」
もう一度「わかってんな?」と言ったかっちゃんに、僕は自然と呟いたのだ。
「完膚なきまでの一位……」