※原作既存キャラの死を明確に書いています。ご注意ください。
僕から見て遠い遠い親戚が入院してから、お母さんは時折その親戚の病室を訪ねていた。最初は食道から始まって、転移に転移を重ねてもうどこの癌かもわからないほどとのことだが、とにかく末期の癌らしい。それでも、高齢だから進行はそんなに早くないとかで、入院してからかれこれ半年は経つんだとか。配偶者に先立たれ、面倒を見てくれる子どもも孫も居ない。そんな彼を不憫に思ったのか、お母さんは「私も昔お世話になったから」と言って自ら率先して病院に通っていた。そんなお母さんが町内会の廃品回収で張り切りすぎてぎっくり腰になったのが先週の日曜日。毎週水曜と土曜に通っていた病院へ行けなくなったお母さんは、ついに僕に白羽の矢を立てた。
「緑谷のおじいちゃん」は、御年九十五歳。「僕」は春休みが明ければ中学一年生になる。いや、なれる「はず」だけど、果たして僕は本当に中学生になれるのか、実際よくわからない。小学校なんて、もう一年以上行っていなかった。僕は卒業式も出席せず、自宅に届いた卒業証書をまだ開いてすらいなかった。
『がっこうは いかない の』
食道癌の腫瘍を摘出してから、緑谷のおじいちゃんは喉に管をつけて呼吸と栄養を摂っている。そのせいで声も出せないから、病室のベッドの上に固定されている五十音の表が書かれた機械で会話をしているんだ。顔もほぼ固定されているから、目線でひらがなの文字に照準を合わせると、文字がタブレットに打ち込まれ文章を作り、ロボットがAIで作るその人っぽい音声がそれを読み上げる。おじいちゃんの目が一つ一つの文字を追い、ゆっくり紡がれる言葉は耳に柔らかく思いの外心地良かった。
「今はね、春休みなんだよ」
『いま なんねんせい』
「六年生……あ、違った。春から中一」
『べんきょう は むずかしい ?』
「どうだろう、小学校よりは難しくなるのかな」
『がっこう は たのしい ?』
緑谷のおじいちゃんの問いかけに僕が言葉を詰まらせると、タイミング良く看護師さんが病室に入ってきた。定期的に呼吸器のチューブ調整と血圧測定に来てくれるのだ。
「おはよう緑谷さん! 今日もお孫さん来てくれて嬉しいねえ」
「あ、僕は孫じゃなくて……」
看護師さんが元気に挨拶すると、緑谷のおじいちゃんはペコリと頭を下げる代わりに目線を落とす。僕が看護師さんの勘違いを訂正しようとするが、テキパキと忙しそうに作業している看護師さんの手際の良さの前に僕の声は掻き消えてしまった。緑谷のおじいちゃんの活躍を知る世代は、いつだってかつての英雄を前に嬉しそうに昔話を繰り広げる。僕が生まれるずっと前の大災害、災害救助で町一つ救ったヒーローたちの話や、海外の首相を飛行機ハイジャック犯から救けた話など、まるで映画の中のようなお話ばかり。そんな中でもやっぱり語り継がれるのは、緑谷のおじいちゃんが高校生だった頃の話だ。緑谷のおじいちゃんの腕はその時のケガが影響したとかで、後遺症で約二十年前に動かなくなってしまった。ヒーローに定年退職という概念は無いが、事実上の引退がその頃だったと聞く。それでも、七十を超えてヒーロー活動をするのはあまりにもタフな爺さん、という印象だけど。そういえば、ヒーローという職業が下火になったのもその頃だった。個性社会において制限すべきは個性ではなく、ヴィランが社会の在り方でヴィランになってしまったように、根本解決にヒーローは不要であると言う論調が高まったからだ。
看護師さんが一通りの作業を終えたのか、緑谷のおじいちゃんのベッドの角度を少し立たせてから病室の引き戸を閉めて帰っていった。僕はベッド脇のパイプ椅子から立ち上がり、角度が変わったことで緑谷のおじいちゃんの頭の上にあったモニターを顔の前に直した。モニターを緑谷のおじいちゃんの目線に合わせるべく、その瞳をモニター越しに覗き込む。シワだらけの瞼に覆われた瞳は僕のお母さんや親族に似ている、赤い色をしていた。
『がっこう は たのしい ?』
「まだその話続いてたのか……うん、楽しいよ」
不意にモニターから流れた、先ほどど一言一句違わぬ言葉に僕がうんざりしてそう答えると、緑谷のおじいちゃんはその瞳をモニターから僕に移す。「本当か?」と問いかけられる。いや、実際に声には出していなかったけど、僕にはそう言われているように感じた。
「――本当は、楽しくない」
『どうして ?』
「言いたくない」
きっと、このおじいちゃんには僕の気持ちなんてわからないだろうから、言う気にもならなかった。かつての人気職業であるヒーローのように、個性が活用できる時代は終焉を待ちつつある。僕は、去年の今頃に今の学校に転校してきた。僕の個性はとても強力で一歩間違えば人を殺しかねない危ない個性だ。そのせいで転校前はクラスメイトに大きなケガをさせてしまった。別にそれ自体は当事者間で終わったことだったんだけど、その話に尾鰭がついて噂話となり、今の学校では“ヴィラン予備軍”と言うレッテルを貼られ、クラスメイトから遠巻きにされるようになったんだ。僕じゃなくて僕の個性しか見ていない、僕の本質なんて誰も気にしていなかった。
「……なに?」
話は終えたのだ、と僕が持ってきた文庫本に目を落とすと、ロボットの音声が「あ」「きっ」「おば」など言葉にならない奇声をあげ始めた。ついにモニターが壊れたのかと僕が顔を上げると、緑谷のおじいちゃんがモニターに文字を打ち込もうとしては消して、まるで人間のように言い淀んでいた。
「ちょっと、どうしたの?」
『いじめ か』
「――だったらどうする?」
『がっこう が すべて じゃ ない』
緑谷のおじいちゃんはそう言うと、悲しそうな表情をして瞼を閉じた。シワシワの目尻の隙間から、涙が一筋滑り落ちるのが見えた。長時間モニターを使って会話をすると、目の乾燥で涙液が乾いてしまうから、緑谷のおじいちゃんは定期的に目薬を注している。僕には滑り落ちた水滴が目薬かおじいちゃんの涙だったのか、判断がつかなかった。緑谷のおじいちゃんは数十秒間そうして目を瞑っていたが、不意にパチリと目を開け、モニターを見つめた。
『おりじん を わすれない で』
緑谷のおじいちゃんは短くそう言うと、今度は本格的に眠りに入ったのか、その日は僕がいる間に目を覚ますことはなかった。
次の日、僕がいつものように病室へ向かうと、ちょうど中から出てくる人影があった。引き戸の磨りガラスの向こう側では「――君、また見舞いくるわ、元気でな」と西側訛りの女性の声が聞こえてくる。僕が引き戸に手をかけるのと、その女性が勢いよく開けて出てくるのはほぼ同時だった。
「……っ」
「あ、ごめんなさい、大丈夫?」
中から出てきたのは高齢の女性で、腰は曲がっていたものの足取りと声はしっかりしていた。僕は咄嗟に手を差し出し、女性が部屋から出れるように引き戸を支えながら道を開けた。すると女性は「良い子やねえ、ありがとう」と僕の左手を握りながら病室から一歩踏み出す。触れた指先には肉球のような感触があった。
『うららか ありがとう』
緑谷のおじいちゃんのいつものロボット音声が声をかける。“うららか”と多分この女性のことを呼んだと思われる名前に、女性は振り向くことなく杖を軽く上げて応えていた。
僕が病室に入るとベッド脇の棚には白い紙袋が置かれており、先ほどの“うららかさん”が持ってきたもののようだ。中身は焼き海苔や顆粒だしの詰め合わせで“香典返し”と言うやつだった。先ほどの女性は緑谷のおじいちゃんの同級生らしく「見えない! 若い!」と率直な感想を言えばおじいちゃんは少し笑っていた。なんでも、緑谷のおじいちゃんの同級生が亡くなったらしい。葬式に行けない自分の代わりに香典を頼んだと言っていた。「悲しい?」と聞けば緑谷のおじいちゃんは、この年になると知った顔の葬式にも慣れたもんだと言っていた。それでも、やっぱり伏せた瞼から一筋流れた涙液は目薬ではないと僕は思った。
「緑谷のおじいちゃんは、死ぬのは怖くない?」
『ない』
本当にモニターに文字を打ち込んだのか、と言うほど食い気味な即答だったから僕は少し笑ってしまった。なぜかと問えば『後悔が無いから』と言って緑谷のおじいちゃんは目を伏せた。先ほどの女性が来たから疲れが出たのかとも思ったが、日に日に起きていられる時間が短くなっている、と看護師さんから聞いていた。お母さんに渡すように言われた“香典返し”とおじいちゃんの着替えを持って僕は早々に病室を後にする。死ぬ前になって、後悔がある生き方をしたくないと思った。僕も『ない』と即答できる生き方をしたい。まずは、机の引き出しに仕舞ったままだった卒業証書を開けようと思う。嫌々行った洋装店で採寸した中学の学生服――今時珍しい学ラン――明日はそれを着て来よう。「春から中学校に行くよ」と、緑谷のおじいちゃんに伝えたかった。
*
緑谷のおじいちゃんの病室は、入院棟の一番上の角部屋だ。多分終末医療患者しかいない病棟なんだと思う。昨日まで居た隣の部屋の名前が無くなっていることも少なくなかった。エントランスから一番奥の廊下まで進むと、入院病棟用のエレベーターへ乗り込み十七階を押す。エレベーター内の液晶はぐんぐん数字を上げて進んでいく。僕はその下にあるエレベーター内を映す監視カメラの液晶を見つめた。僕一人、真っ黒い学生服に身を包み立っている。採寸の際におじさんが「いずれ大きくなるから」と言って大きめに作られた学ランは、どこもかしこも大きすぎて見るからにダボダボだった。
軽快なベルの音をあげてお目当ての最上階へ着くと、僕はいつも通り端にある病室を目指して歩き出した。途中のナースステーションで会釈をするのも忘れない。ここ最近は顔パスになっていた僕だが、今日はナースステーションの中が騒がしく、カウンターには会釈する相手は誰もいなかった。
病室までの廊下で、数人の看護師とすれ違ったが誰も彼も金属製のワゴンを忙しそうに運んでいた。僕は角部屋に近づくにつれ騒がしくなるその様子に自然と急ぎ足になり向かう。いつもビッチリ閉められていた緑谷のおじいちゃんの引き戸は開放してあり、白いベッドの横には白衣を着た医者や看護師がつめかけていた。柔らかな声で『よく きたね』と言ってくれたモニターは部屋の端へ追いやられ、緑谷のおじいちゃんはいつも喉につながっている管を外されていた。
「緑谷さん! 聞こえますかー!」
「血圧低下しています!」
緑谷のおじいちゃんは誰の問いかけにも答えない。僕は手に持っていた中学校のカバンを投げ捨てて駆け寄ると、緑谷のおじいちゃんの感覚も残っていない右腕を握って声をかけた。
「おじいちゃん! 緑谷のおじいちゃん!」
「……ぁ」
僕が冷たくて骨と皮だけの右腕を力強く握ると、閉じていた緑谷のおじいちゃんの瞼が震え、ゆっくり開いた。シワだらけの瞼に隠れていた赤い瞳には、泣き出しそうな僕の姿が映る。大きすぎる学生服の詰襟が僕の顎まで隠すほどだった。
「おじいちゃん!」
「…………ンか……く……」
「ねえ、僕……中学校、ちゃんと行くよ! 勉強も頑張るし、クラスメイトは怖いけど、ちゃんと話してみるよっ……頑張るよ……っ」
「……やっと……迎えに来てくれたンか、いずく……」
初めて聞いた緑谷のおじいちゃんの声は、思ったよりハスキーで味のある声をしていた。僕が握っていた右腕はもう何十年も動かないと聞いていたのに、緑谷のおじいちゃんの力で引き寄せられるとじんわりと掌が温かく光るのを感じた。その瞬間、緑谷のおじいちゃんの右手に包まれた僕の手が文字通りキラキラと光り輝いたんだ。緑谷のおじいちゃんの掌から発するそれは、線香花火のように何度か弾け、病室内に「パチッ……パチッ」と微かな爆発音が鳴る。数分か数十秒後か、完全に音が鳴らなくなるのと同時に、心拍数がゼロになり黄緑色の一本線が心電図モニターに映されていた。
僕は静かになった病室で緑谷のおじいちゃんの右手を放すと、掌が少し焦げ付いていた。緑谷のおじいちゃんがしたように、僕の“個性”で掌の中を軽く爆ぜさせてみると、虹色にも見える光が弾けた。それはきっと、いのちの証だった。
いのちの証
**
「葬式ね……ご家族と、親しい友人だけやった」
『もうしわけ ない ありがとう』
「あはは、爆豪くんの言葉じゃないみたいや。AIのフィルタリングってやつ? すごいねえ」
『ばくごう じゃない』
爆豪くんに持ってきた“香典返し”をベッド脇の棚へ置きながらそう言えば、爆豪くんは声の柔らかさと釣り合わず目を鋭くさせて私を咎めた後、ベッド上のナースコールボタンにつながる名札を見た。「緑谷勝己」そう書かれた名前を愛おしそうに眺めているのを、私はこの目で何度も見ていた。
「なんでデクくんの方の苗字にしたんやろ、って私ずっと思ってたんよね。どちらかにするなら、爆豪くんのにするんかと思ってた」
二人がお互いを配偶者として国に認められるようになったのは、事実上のパートナーとして私たちA組にその関係を公表してから随分後のことだった。だから正直どちらの苗字にしたかわかっていなかったのもある。そもそもお互いに別姓にしていた可能性もあったわけで。私は爆豪くんの苗字が“緑谷”になったのを初めて見たのは、デクくんの葬式会場だった。
『のこされる のは きっと おれ だ と おもっていたから』
「ああ……うん、わかる」
『しょうこ が ほしかった』
そう言って爆豪くんは目を閉じて一筋の涙を流した。随分前から、涙腺がバグっている――とは彼の言い分だったけれど、デクくんがこの世を去ってから今まで酷使してきた表情筋が緩んできたのか、私たちA組の面子の前でもよく涙をこぼしていた。
人間の脳のキャパシティはいまだに解明されていない部分も多い。絶対に忘れるもんか、と思っていても忘れてしまうものばかりだし、あんなに大切だった人の声も、顔も、その時の表情だって、忘れてしまうものなんだ。それは自分の心のためでもあるけれど、曖昧な“記憶”だけでなく“証拠”として残しておくというのがなんとも、私たちがよく知る爆豪勝己そのものだと私は思った。
「ほんなら、爆豪くん、また見舞いくるわ。元気でな」
目を使いすぎたのだろう、瞼を閉じたまま爆豪くんが唯一自由な左手を軽くあげる。心電図モニターと繋がった計測器がズレたからか「ピッ」と軽く鳴り、それが返事のようで少しおかしかった。病室の扉を開けると、同じタイミングで外からも開けられて少し体勢を崩した。
「あ、ごめんなさい、大丈夫?」
私の体を支えてくれたのは、中学生くらいの男の子で見るからに爆豪くんの親族という風貌をしていた。病室の引き戸を押さえながら、私のために道を開けてくれる優しさに「良い子やねえ、ありがとう」と差し伸べてくれた手を取る。柔らかい掌はあたたかくて、とても優しい――私や爆豪くんが会いたくてたまらないあの人を思い出した。
『うららか ありがとう』
まだまだ長生きせんとな、と私は爆豪くんの声に手に持った杖を上げて応える。随分前から肩なんて上がらんかった私だけど、今日だけは若ぶりたい、そんな気分だった。