これがきっと愛ってやつなのかもしれない というお話の番外編です。
よろしければ上記の話を先にお読みください。
かっちゃんとデクがビアバーで駄弁っている小話です。
車を置いて最寄り駅から電車に揺られること十五分、閑静な住宅街から一転した繁華街に差し込む夕焼けが俺たちの影を長く伸ばしていた。
お目当ての店は俺が数年前から通っている全国各地のクラフトビールが揃うビアバーで、俺たち二人はまだ少し早い閑散とした店内の窓際にある立ち飲み席に落ち着いた。
「ええ〜迷うな〜全部美味しそう。グレープフルーツの風味が後味さっぱりのIPAです……マイルドな中にも香ばしいホップの香りがある黒ビール……さわやかマンゴーエールだって! どうしよう」
四十も過ぎたというのに、目の前の男はまるで出会った赤ん坊の頃のように表情をくるくる変えながらメニュー表と睨めっこしていた。そんなに表情豊かにしなくてもメニュー表はお前を笑わせてきたりはしないのだ、睨めっこ勝負はやめてもらいたい。
ナード全開のブツブツ喋りに耐えきれず俺は店員に二つの違うビールを頼んだ。
「え! かっちゃん頼んじゃったの!?」
「てめェが好きそうなの頼んでやったんだろ」
「僕が好きそうな奴なんてわかるのかよ……」
「わかるに決まってンだろ」
俺が手元の紙ナプキンを出久の方へ渡しながらそう言えば、出久はキョトンと目を丸くした後に頬を染めて「えへへ」とだらしなく笑った。
「そっかあ、わかるに決まってるンか〜」
「……なんだよ」
「別にぃ」
嬉しそうにする出久が「じゃあフードは僕がかっちゃんの好みで頼んであげる」と言ってまたメニューと睨めっこし始めるのを見て、俺は出久にバレないよう声に出さず笑った。
一通りメニューに目を通した出久が「よし」と意を決して店員を呼ぶ。
「冷やしピーマンの粗挽きマトンカレーのせ、鯖とチリコンカンのホットサンド、燻製たまごのポテトサラダ……ポテサラはハーフサイズでお願いします!」
出久のよく通る声がオーダーを言い終えた時、頼んでいたビールも届いた。出久は乾杯しようとグラスを俺の方へ向けながら、先ほどのオーダーを「どう?褒めて!」と目で訴えかけていた。
俺が乾杯と共に「合格」と言ってやれば、出久はまた嬉しそうに笑った。
薄いグラスの口当たりに冷えたビールが喉を通ると、俺たち二人はおじさんのように(いや、正しく二人とも「おじさん」の年齢になっているのだが)同時に腹の底から滲み出る声にならない呻きをあげた。
「……〜〜ッ! 疲れた身体に沁みる〜」
「……ッハ、うめェ……」
「改めて、かっちゃん運転お疲れ様でした」
「昨日の家具組み立てが結構効いてンな」
「わかる。僕だけだったら一日で終わらなかったかも……かっちゃん居てくれて良かった」
「ほんとにヨォ……あいつもお前も見通し甘過ぎんだろ」
俺たち二人の娘が一人暮らしするアパートの引っ越し作業のため、と言ったら事務所の連中に絶対行ってやれと半ば強制的に休まされたのだが、二日かけて行って良かったと思う。作り置きの料理も思う存分作って来ることができた。
出久には帰りの車の中で「作りすぎ」と少し怒られたが、あいつが仕事から帰ってきたクタクタの体で自炊するとは思えず、かといってコンビニ飯ばかり食べさせることもしたくなかった。
いや、俺が作りたくて作っていたのを、この男は見抜いていたのだろう。出久が俺の代わりというように帰りの車内で「寂しい」と言っていたのを思い返してビールを呷った。
やはり慣れない長距離運転に疲れが出ていたのか、俺が出久よりペース早くグラスを空けて二杯目を頼むべくメニューを見ていると、出久は心配そうに俺を見ていた。
「明日も仕事でしょ、飲み過ぎないでよ『パパ』」
出久はあまりにも馴染み過ぎていたその言葉に最初は気づかなかったようだが、少しして「あっ」という顔をしてホットサンドにかぶりついていた。
俺と出久がこの二十年間で築いてきた新しい呼び名はそう簡単に崩れないようだ。俺と出久は「近所の同い年のガキ」として出会い、「同級生」「幼馴染」「同業者」それらを経て「恋人」となっても、呼び名は変わらなかった。
ただ一つ、俺たち二人の間に娘がやって来た時、俺たちは意図的に「親」になったのだ。
「二十年だぞ、染み付いて取れねえよ」
「うん……ちょっと気恥ずかしい気持ちもある」
口に馴染んだ呼び方を変えるのは並大抵ではないし、俺と出久が「親」になった証のようなソレを俺は案外気に入っていた。
「でもね、僕は『かっちゃん』って呼んでいい唯一だから。この場所を譲りたくないんだ」
出久はまるでヒーローとして最前線で闘っていた頃のような凄味さえ感じる意志で俺を見据えていた。
「『パパ』はあの子のものでしょ、『かっちゃん』は僕のものだから」
俺は頼んだ二杯目のビールもきっとすぐに飲み干してしまうだろう、と予感できるほど身体中に帯びた熱がそれを欲していた。
俺が『デク』という呼び名を大衆に許していたのを、どんな気持ちでいたのか、こいつは少し思いしれば良いと思っていたのだ。
「……やっとわかったかよ」
「え? なんて?」
「そろそろ『デク』も俺のものに戻って欲しいって話だよ」
俺が言った言葉に出久は頭の上でクエスチョンマークを飛ばしながら「僕はかっちゃんのものだよ」なんて言うモンだから、俺はやはり目の前の男の憎たらしさとそれを上回る愛おしさを噛み締めて酒を呷るのだ。