ひそやかな遠音

結婚済のプロヒ勝×兼業教師デの小話

 

 

 

 

 

「聞いてんのか、いずく」

 今日は中間テストの講評後に雄英教師たちの親睦会があるから、少し遅くなると言っておいたはずだ。きっとかっちゃんは明日に備えて既に就寝しているのでは?という僕の予想は、リビングの扉を開けて大きく外れたのだとわかった。
 家に帰ると赤い顔してソファに座っている君が、“僕”に話しかけていた。

「九時っつったのどこのどいつだあ!? 今何時だ! オラ! 言ってみろ!……クソがぁ……帰りおせェんだよ!」

 僕の寝巻き代わりの雄英ジャージが着せられたクッションの角を、かっちゃんが人間の肩のように抱き寄せて吼えている。大人になったかっちゃんの沸点はだいぶ落ち着いたのか、ここのところこんなにオラついた態度を僕に見せることは無くなったから逆に新鮮だった。ちなみに今は九時十五分で、言うほど遅い帰宅ではないと僕は思う。血行の良い頬の紅色、もはやトマトのような顔色を見るに時刻なんてわかっていないようだ。

「ただいま」

 僕はかっちゃんの右手から缶ビール、左手から僕もどきの憎っくきクッションを取り上げると、かっちゃんは半目に閉じかけている目蓋をやや開いて僕をとらえた。

「ほんものか?」
「本物さ」

 かっちゃんが取り上げられたクッションを探すように、宙に浮かせた手を動かすものだから僕はただ綿が入っただけの“僕”を放り投げて飛ばした。もちろん、普段はこんなことをしない。僕も飲み会帰りで酔っている、ということにしておこう。縋るものを間違えるな、とかっちゃんの両腕を僕の腰に回させる。

「かてえ」
「あんな綿だらけ野郎と一緒にしないでよ」

 引き寄せられるままかっちゃんの隣に腰を下ろす。かっちゃんは僕のスーツの肩にその額を何度かぶつけると、「酒くせえ」と言って全力で抱き締められた。

「どっちがだよ……」

 呟く間もなく、僕の首元にはアルコールのにおいをさせた寝息がかかっていた。幼い頃と同じような顔をして安心したように眠るかっちゃんの額に、僕は一つの口付けを落とした。かっちゃんの呼吸が、僕の喉の窪みに触れるたび、ひゅう、と小さな風が立つ。眠ってしまったとわかっていても、そのたびに胸の奥がじんわり熱を帯びた。まるで確かめるように僕の体温を吸い込んでいくから、どうしたって離れがたかった。

「……重いよ、かっちゃん」

 そうは言っても二人でこのままソファに居ることもできないから、僕がそっと肩を揺らすと、かっちゃんは眉間だけを不機嫌そうに動かして、さらに力を込めてきた。まるで、今離したら僕がどこかへ消えると思い込んでいるようだ。僕は苦笑して、スーツの上着だけでも脱ごうとしたけれど、かっちゃんの腕が僕の腰を鎖のように締めているせいで身動きが取れない。仕方なく、諦めて立ち上がりかけていた上半身を背もたれに預けた。

「かっちゃん。お風呂入ってないでしょ……」
「……はいった」
「はい、嘘。一人で入るの心配だから、一緒に入ろう? まず離れないと……」

 返事はない。ただ、ゆるく開いた唇から熱い息が落ちてくるばかりだ。僕の胸元に触れたかっちゃんの指が、くい、とネクタイを引っ張った。寝たまま本能だけで動かしてるみたいで、そのささやかな仕草が僕より大きい図体のくせに思いのほか可愛らしくて胸に刺さる。

「……ほんと、ずるいなあ」

 僕はつぶやいて、彼の髪に手を埋めた。気性の荒さを象徴したのかと思うほど、爆ぜるように立っていた昔の髪質よりもずっと柔らかい。ちょうど先週に短く切った前髪の奥からは、少年特有の丸い頬は削げて成長した横顔がのぞく。それでも、今日この時僕に甘えるようにくっつくかっちゃんは、どうしようもなく昔のかっちゃんに見えて仕方なかった。
 髪の毛の流れるままにそっとその頭を撫でていると、かっちゃんがぼそりと呟いた。

「……おせぇ」
「え?」
「いずく……おせぇって言ってんだよ……」

 眠ったまま、寝言でも文句だけは言うらしい。相変わらずだ。

「遅くないよ。ほんの十五分だし」
「……二十分」
「十五分。ほら、嘘つかないの」
「……知るか」

 拗ねるようにそっぽを向くかっちゃんの頬を両手で挟み込み、僕はかっちゃんの額に自分の額をそっと寄せた。触れた瞬間、かっちゃんの指先がきゅ、と僕のシャツを掴む。

「大丈夫。ちゃんと帰ってくるよ。いつでも」

 そう囁くと、かっちゃんの眉間のしわがゆっくりほどけて、代わりに僕の体へ身を預けてきた。その重さに僕は微笑む。

「ほら、寝よ。ソファで寝たら明日絶対腰痛くなるよ」

 少しだけ腕をほどこうとした瞬間、かっちゃんが再び僕の腰を強く抱き寄せた。これ幸いと立ち上がれば、抱きついたままのかっちゃんがずるずると引きずられてくる。それがなんだか可笑しくて、僕は思わず吹き出してしまった。

「ちょっと、歩ける? お風呂は明日でいいから」

 ゆっくり立ち上がって体を支えると、かっちゃんはしぶしぶ僕の首に腕を回した。足取りは少しふらついている。それでも僕が触れている部分だけは、やけにしっかりと熱が戻っていた。その体温を感じながら、僕は寝室への短い廊下を歩く。歩きながら僕が声を出して笑ったのは、かっちゃんの髪の毛がうなじをくすぐるからだ。明日の朝、きっとかっちゃんは知らぬ間に移動したベッドの中で、二日酔いに頭を抱えるだろう。
 僕の帰りをこんなふうに待ちわびて、クッション相手に怒鳴るほど寂しがっている君を、地球上の誰も知らないでいてほしい。そうだ、本人が覚えていなくても、僕がずっと覚えているから、その無防備な本音をどうか誰にも見せないで。
 今はただ、この肩の重さが愛おしくてたまらなかった。

 

 

 ひそやかな遠音