未来捏造のプロヒ設定の勝デです。
「デク、この辺り住んでたことあるのかい?」
塚内さんの部下だという警察官の中年男性は、僕にそう言ってコッペパンを一つ手渡してくれた。
件の大戦後、ヒーロー飽和社会とまで言われたあの頃とは一変して、少なくなってしまったヒーローを支えたのが警察だった。逮捕の権限は持っていないヒーローが、迅速に現行犯逮捕できるよう対策された末に警察とヒーローが連れ立ってパトロールすることが義務付けられたのだ。今日の僕のバディは柔和そうな先の彼で、先月異動してきたばかりで勝手がわからないよと愚痴をこぼしていた。
「君がおすすめしてくれたタマゴサラダはやっぱり売り切れだったよ」と残念そうに言いながら、『粒ピー』と書かれたシールが貼られたラップを取ってかぶりついている。粒ピーこと粒入りピーナッツは僕のお気に入りだったが、初対面の人に譲ってくれだなんて僕は言わない。見た目は僕が手渡されたハムチーズと全く同じ、中身を言われなければわかりようのないコッペパン。百年以上続く老舗の和菓子屋で、何故か惣菜コッペパンが人気なのだ――なんて、近くに住んでいなければわからないだろう。聞かれるのは当然のことだった。
「いえ、僕は住んでたことなくて……かっ……と、友達が」
歯切れ悪くそう僕が口に出すと、彼は興味なさそうに「へー」と言って二つ目のコッペパンのラップを剥がしていた。二つ目はジャムだったのだろう、赤い半透明の液体が頬張った瞬間出てくるのを焦った彼は、既に僕の返事を気にしてはいなかった。そういえば、僕が手土産のようにいくつかコッペパンを買っていけば、いつだってしょっぱいのばかり取られていたっけ。残った甘いパンを消化させるのはもっぱら僕だった。
いつの間にか詳しくなったこの街に来るのも、随分久しぶりだ。三叉路を右に行けば、一方通行の細い傾斜のキツイ坂がある。坂の下にあるバス停はどうやら近くに役所や学校があるらしく、平日の通勤ラッシュ時ともなれば何台ものバスが大量の人を降ろすのを、僕は彼の住むマンションのベランダから何度も見ていた。僕が目印にしていた丸い鏡が三つついたカーブミラーを越えて見えてくる単身者用マンションに、かっちゃんはもういない。
「さぁて、休憩終了だ。頼むよデク」
「……はい!」
僕は手元に残る一口大のコッペパンを放り込むと、缶コーヒーで流し込んだ。ハムチーズと無糖コーヒーの相性は最悪で、僕はなぜミネラルウォーターにしなかったのか数分前の自分を恨んだ。無意識に甘いパンが食べられるのだ、と思ってしまったのかもしれない。大・爆・殺・神ダイナマイトのいないこの街は、あの頃より幾分静かに感じた。
*
かっちゃんは別に、海外に行ってしまったとか、縁起でもないけれど命を落としたとかそんなことはない。ただあの単身者用マンションには居ない。それが全てで、僕はそれに干渉するような立場にはないのだ。
突拍子のない昔話をするようだけど、少し僕の話をさせて欲しい。僕らの世代は割と一人っ子が多かった。それでも何人かの同級生が優しい姉や兄に手を引かれて公園に来ているのも知っていた。絶対的な愛情をくれる母とも違う、優しく見守ってくれる父とも違う、同じ子どもなのに自分の味方でいてくれる存在が僕にはとても眩しく思えた。ちょうど自分が「無個性」だと判明した頃だったからなおさらそうだ。腫れ物のように扱う大人、バカにする同級生たち。それに加えて当たりの強くなった幼馴染に、僕は誰も味方が居ないような気分になったのだ。
僕はかっちゃんがお兄ちゃんだったら良かったのに、と当時本気で思っていた。少なくとも僕が無個性だとわかる前までかっちゃんは僕ら同年代の中で「兄貴分」的存在であったことは確かで、頼りになる存在だった。かっちゃんも一言声を掛ければ喜び後をついていく僕のことを良く言えば弟、悪く言えばペットのように思っていたんじゃないかな。秘密基地にある宝物の綺麗な形の石も見せてくれたし、虫捕り競争では一匹も捕れない僕に自分のを分けてくれたこともある。僕の思い違いでなければ、一人っ子の僕とかっちゃんは兄弟のようにお互いを思っていたと思う。
かっちゃんが僕のお兄ちゃんだったら、あの頃何があっても、僕の味方でいてくれたんじゃないかって本気で思っていたんだ。
最悪の中学時代を思えば、僕とかっちゃんの関係は大人になるに連れて良好なものに落ち着いていた。しかし、お互いが目を背け合っていた思春期の頃があるからか、僕がかっちゃんの生活スタイルのことでわかっていることなんて高が知れていた。あのド派手な個性のこととか、雄英時代から何度もアップデートしているヒーローコスのことなんかは、そこら辺のマニアに負けないという自負はある。そうではなく、かっちゃんの「人間」の部分についてのことだ。だから自らの生活する場所へかっちゃんが「来ても良い」という許しを与えてくれることは、僕にあの頃の欲求を思い起こさせる一端を担ったに違いなかった。互いの一人暮らしの部屋に行き来するくらいには、かっちゃんが心を許してくれてるのだと僕は浮かれていた。
『僕ね、ずっとかっちゃんがお兄ちゃんだったら良かったのにって思ってたんだ』
料理を振る舞ってくれるって言うかっちゃんの部屋に招かれて、さあ食べ始めようかという時だった。手土産にワインを買ってきた僕は、コルク栓抜きが入っている缶入れを見て「かっちゃんも少し良いとこのお菓子の缶は取っておく派なんだなあ、意外だな」なんて思って、また知らないかっちゃんの一面を知れた嬉しさから無意識にそう呟いていた。
完全に浮かれていた。そんな僕の頭がひんやりと冷えていったのは、血の気が引いたかっちゃんの顔を見たからだ。
『俺はお前と、そんなモンになりてえと思ったことはねェ』
その日から、近づいた分の距離がまるで嘘のようにかっちゃんと疎遠になった。いつの間にか引っ越していたかっちゃんの新居も僕は知らないし、あの日のワインの味も覚えていない。
*
「轟くん、兄弟ってどんな感じ?」
別に待ち合わせたわけではないけれど「駅中なのに繁華街側と反対の出口だから空いている」という立ち食い蕎麦屋を教えてくれたのは紛れもなく目の前の常連客なのだから、今日も居るかもしれないとは思っていた。ズゾゾゾと強い肺活量で啜る音が止まる。隣とのプライバシーを申し訳程度に塞ぐ磨りガラス越しに見える紅白のシルエットは、蕎麦の器に突っ込むようにしていた顔をひょっこりと上げた。
「俺の家庭事情知ってんだろ」
「いやでも、一人っ子の僕よりは断然経験値が違うから」
「ゲーム序盤で会う敵くれえの、なけなしの経験値だと思うぞ。飯田に聞いた方がいい」
「君もゲームなんてするんだ……飯田くん一昨日から北海道だって」
轟くんは磨りガラスの向こうでもう一度勢いよく蕎麦を啜ると、上のせいろを退かして下から出てきた二枚目のせいろに手をつけ始めた。僕はカレー南蛮蕎麦にフウフウと息を吹きかけながら、先ほどの続きを喋り始める。カレーが飛び散らないように気をつけながら、それでも耐えきれずある種諦めのように勢いよく啜った。案の定黒いTシャツに一点の茶色が模様付けされた。
「ぼく、ふぅー……お兄ちゃんって……ふぅー……憧れあってさ」
「……相続とか、揉める時は揉めるらしいぞ」
「それは、嫌だな」
僕がそう言ってコップの水を飲み干すと、轟くんは水差しを持ってそっと僕のコップに注ぎ足してくれた。思ったよりも辛いカレー南蛮蕎麦に苦戦しているうちに、二枚のせいろ蕎麦を食べ切ったらしい。そういえば立ち食い蕎麦はサッサと食べるのが流儀だと言っていたっけ。「ありがとう」と僕が言うと轟くんは「そう言えば」と自分のコップに水を注ぎながら口を開いた。
「夏兄が、今度結婚するらしい」
「そ、そうなの……! おめでとう! それは嬉しいね」
轟くんのお兄さんが結婚するなんて、なんておめでたい報告なんだと僕が感激していると「俺も夏兄が幸せそうで、嬉しい」と磨りガラス越しの轟くんは頬を掻いて照れていた。
「他人」
「え?」
「兄弟は他人の始まりらしい」
「他人……」
「夏兄の結婚は、嬉しいけど少し寂しい。一歩他人に近づいたような気がする。血の繋がりはもちろん特別だが、それだけが重要かと言われると、そうではない事の方が多いだろ」
『君の力』ってあの時緑谷も言ってくれたしな。
僕がスパイスが効いているカレー南蛮蕎麦に苦戦していると、轟くんはそう言って食器を片付けにカウンターへ向かった。自動ドア付近で軽く手を挙げて別れの挨拶をする轟くんを見送り、僕は目の前の蕎麦にラストスパートをかけた。
僕はそれでもやっぱり兄弟が他人だなんて思えないけど、最初から居た当たり前の存在が一歩離れた時の寂しさは想像していなかった。かっちゃんに大事な人が出来て「いずく、俺結婚すっから」なんて言われたら、僕は兄弟として祝福してあげられるだろうか。「少し寂しいな」なんて言って、今日と同じようにカレー南蛮蕎麦を啜れるのだろうか。麺を食べ切った器に残るカレーに、頼んでおいた半ライスを茶碗から落として蓮華で混ぜる。
想像しただけで、半ライスを食べる僕の食欲は失せていた。
*
――ピンポーン
聞き慣れたインターホンだった。ここまで来る道のりも、僕が目印にしていたカーブミラーも、同じようにそこにあった。そう、かっちゃんはこの街から出て行ってなどいなかったのだ。あの蕎麦屋のあとすぐに「かっちゃんさん、今どこに住んでるんですか?」というメッセージを送ると、鬼の速さで返信がきた。「ハァ? 引っ越してねえけど」って。なんでも上階からの水漏れで一時的にリフォームが入ったらしく、別の部屋に仮で引っ越したらしい。数週間でリフォームは完成し、また元の部屋に戻ったとのことだ。
思えばかっちゃんの口から直接「引っ越した」とは言われていなかった。僕が数か月前に訪ねた際、郵便受が塞がれていた。何度も見たことがある賃貸物件の空室の合図だ。それに加えてたまたま現場で居合わせた切島くんの「爆豪引っ越し、大変だったらしいな」という言葉で勝手に別の街へ引っ越したものだと勘違いしたのは僕だ。なんて間抜け、なんてピエロ。大・爆・殺・神ダイナマイトが居ないから静かになった街なんて、僕の幻想だったみたい。
しかし、僕らが一時的に疎遠になったのはこの勘違いが決定的なものではないことくらい、僕はわかっていた。
「上がれよ」
たった数か月会わなかっただけで、かっちゃんの頬は少し痩けたように感じた。僕がお邪魔しますと玄関に入り込むと、前と変わらぬ上がり框で靴を脱ぐ。後ろを向いて靴の向きを揃えている僕の背中に、かっちゃんの鋭い声が刺さった。
「なんで来た」
「それは……」
「また兄弟ごっこ始めるつもりか」
僕が振り向くとかっちゃんは泣きそうな顔をして、僕が渡したビニール袋の中身を確認していた。僕が手土産に買ってきたコッペパンはどれもしょっぱいものばかりだった。今日はまだ人気のタマゴサラダが残っていたから、二人で食べられるよう二個買ってきたんだ。僕はかっちゃんの言う「兄弟ごっこ」が今までのどれにあたるのか、皆目見当もつかない。でも、言わなきゃって思った。
「僕、かっちゃんが抜け毛対策シャンプーのCMに出るのは嬉しいけど、マッチングアプリのCMに出るのは違うと思った」
「ハ?」
「雄英のゲスト講師に二人で行った時、生徒に囲まれてる姿を見るのは嬉しいけど、職員室で若い女の先生と喋ってたのはモヤっとした」
「……」
「かっちゃんから結婚したよって言われた時のこと考えると、半ライスだって喉を通らなかった……」
かっちゃんは僕がそう言うと廊下から手を引いてリビングまで連れてってくれた。促されるまま二人でソファに座り、かっちゃんは逃がさないと言うように僕の右手を握りしめたまま、その手を自分の顔まで持ち上げて軽く口付けた。その少し水分を含んだ軽いリップ音は、僕の脳天から腰へまるで稲妻が走ったかのように痺れを起こした。
「……っ……あっう」
チュ、チュッ、と立て続けに付けられた唇は僕の手から腕に続いた。急にどうして、ねえかっちゃんどうしたんだよって言いたくても、僕の口はうまく動いてくれなくて、言葉にならない吐息が漏れるだけだった。もちろんかっちゃんの手から逃げ出すことも出来ず、反らした首だけが悲しく宙に浮いていた。
「……ッ言えよ、俺はお前のなんだ? 何が兄弟だ、何が幼馴染だよ。結局、俺と同じじゃねェか……」
「君は、僕の――」
僕の答えにかっちゃんは安心したのか、ご褒美をくれるようにソファに沈んだ僕の体をその腕に包んでくれた。僕の目尻で先ほどのリップ音が鳴る。さっきより水音が増えたその音の後、かっちゃんは「しょっぺぇ」と言ってまた唇を寄せた。
君は僕の、他人から最も遠い人