君はモネ、僕はピカソ

中学時代の勝デ未満の小話です。

 

 

 

「今日帰りどこ寄ってくー?」
「それでね、その時二組の小林くんが……」
「先生〜! 絵の具無くなったんだけど……」

 外は雲一つない快晴だというのに、校庭に出ている者は誰も居なくて勿体無いなあと僕は窓の外に目を向けた。それもそのはずで、午後の授業はまだ始まったばかりだし、体育の授業でも無ければ校庭に人が居る方が問題だった。いつ来ても画材の匂いが充満する美術室は、窓を開け放しているのに今日も独特の絵の具の香りが漂っていた。
 今年の春から折寺中学に赴任してきた美術教師は年配の女性の先生だった。柔らかい物腰で、何をしても怒りはしないし「絵を見ればその人となりがわかるのよ。君たちは才能の原石! 何にだってなれるわ」と性善説を唱えては、僕ら中学生にある意味「グレること」を許さなかった。ただ、前述の通り何をしても怒られはしないため、生徒からは少々ナメられていた。授業中だって私語の嵐だが伸び伸びやってて良い、と言ってお咎め無しだ。
 秋口になり、衣替えがされて初めての美術で示された今学期の課題は「名画の模写」だった。これから秋の終わりにある文化祭に向けて徐々に完成させようという内容らしく、まずはどの「名画」にするか決め無ければならない。先生が刷ってきた名画のプリントには、いくつかの一度は見たことがあるような有名絵画が載っていた。僕はそれらを見て、目を凝らしながら簡単そうな絵を探す。ヒーロー研究のために絵を描くことはあったがお世辞にも「上手い」とは言えない。どれもこれも、名画は名画たる理由があるのだというように繊細なタッチの人物や風景が、とても僕に描けそうな代物ではなかった。
 そんな中、一際異彩を放つ絵のタッチとハッキリとした色使いに目を惹かれた。パブロ・ピカソの「泣く女」――僕は他の絵よりも線が太く描かれ、何より色使いがどことなくオールマイトを彷彿とさせるソレを題材にすることに決めた。

「どう、緑谷くん。順調?」

 クラスの皆が思い思いにお喋りしながら、友人同士でくっついて描いている中で僕は窓際の風が入り込む一等席で描いていた。いや、良いように言っているだけだ。少なくとも先生には、端っこに追いやられた冴えない生徒が一人で描いていると同情されていると思う。
 先生の問いかけに僕は曖昧に微笑むと、キャンバスを見ようと回り込んできた先生から見えやすいようにキャンバス前からそっと椅子を移動した。

「あら、ピカソ。良いじゃない。あと少しね! 色使いも上手よ」
「ありがとうございます」
「緑谷くんらしいハッキリとした線ね。それに、キュビズム描いてるの君だけよ」
「キュビズム……」

 色使いがオールマイトに似ていたので、とは言える流れではなかった。別にキュビズムとかピカソとか、そんなもので決めたわけではない僕は、また曖昧に笑って去っていった先生の背中を見送る。キャンバスの前に椅子を戻すと、先生が少し離れたところから大きい声をあげていた。「まあ!」だか「あら!」だか、とにかく興奮している声だというのはわかった。続いて聞こえてくる「爆豪くん」という単語に僕は目線をそちらに向けた。僕の方向からは正反対のところでキャンバスを構えた彼の姿を、僕はイーゼルの脚と同じように伸びる長い足しか見ることが出来なかった。だから会話から想像するしかないのだ。背面を向けられたキャンバスの後ろにどんな絵が広がっているのか、かっちゃんが何を選んで描いたのか、どんな顔をして褒められていたのか。

「爆豪くん、上手ねえ〜。もう完成しちゃってるじゃないの」
「おお〜カツキうめえ〜」
「しっかり水辺の揺らぎ、睡蓮の葉の感じが描けているわ」

 かっちゃんの声は聞こえなかったが、僕は見ていることを咎められるような気がしてスッと目線を外した。どんなことだってそつ無くこなすかっちゃんのことだ。そりゃ上手いに決まってるだろう、と僕は目の前の僕が描いた絵に筆を乗せる。

「あ」

 本当は黄色を置くはずだった所に、筆を洗うことなく置いたせいで青が滲んでしまった。僕は慌ててバケツに筆を潜らせて色を落とし、擦ってみたが変に青と黄色が少し混ざっただけだった。あと少しで完成する僕の「泣く女」は目尻に青い一つの涙が意図せず描かれた。上から黄色を置いて隠してしまうことも出来たが、僕はそれを残したままにした。「爆豪くんのモネ、人となりが出るわね」と言って、先生は隣の生徒の絵を見るためかっちゃんのそばを離れた。僕は「モネ」の絵がどんなものだかわからないが、きっとかっちゃんの苛烈なところが出た絵なんだろうってその時は思った。

 秋が終わりそうな木枯らしが吹き荒ぶ頃、文化祭が開催された。何も大々的なことはしない、中学生らしい小ぢんまりとした文化祭だった。体育館で催し物がされている間、教室には授業で作成した発表物や生徒の作品が展示されていた。僕らの学年は美術で作成した「名画の模写」だ。体育館でメインイベントが行われればたちまち客の足はそっちに向かったため、教室にそれらを見にくる客はいない。僕は太陽が傾く教室に一人、遠くでダンス部が発表している歓声を聴きながら貼り出されている絵を見ていた。
 題材にした名画そっくりに描かれたもの、適当に描いたのだろう原物に似ても似つかないものなどがあった。先生が言うようにそれぞれの性格が現れているようで、中には「あの人がこんな絵を」という意外性のあるものもある。僕のピカソも頑張ってはみたが雑さが目立つし、やはり最後に置いた青い絵の具が気になった。

――爆豪 勝己――

 出席番号は誕生日順だった。出席番号の後ろから順に作品を見てきた僕の前に、四月生まれのため最初の方に飾られたかっちゃんの絵がやっと出てきた。
 何通りもの青、緑の葉には少しの桃色、水面には写り込んだ白い雲が微かに見える。

「これがモネ、これが睡蓮……」

 僕は美術の先生の言葉を思い出していた。
 かっちゃんの人となりがこの絵なのだろうか、空も水も花も曖昧な境界線が。それでいて絵の具の乗せ方一つ一つに繊細なタッチながら奥行きが感じられ、睡蓮が咲く池の風景に吸い込まれるような雰囲気を出していた。印象派とキュビズムの違いと言ってしまえばそうだ。それでも、僕は僕の知らないかっちゃんの内側があるんだと突きつけられたんだ。
 それがこの時の僕は、とても寂しく感じた。

 

 

「どこ行くか決めたかよ」

 ソファに座って海外版の旅行雑誌を見る僕の頭上から、コーヒーの香りともにかっちゃんはそう声をかけた。僕はマグカップを二つ持つかっちゃんの手から一つを受け取ると、サイドテーブルに雑誌を置いて両手でカップを掴み直した。
 入れ替わるようにかっちゃんがその雑誌を開くと、折り目がついたページを目敏く見つけたようで「美術館か」と意外そうに呟いた。

「せっかくフランスだしな」

 かっちゃんがうんうん納得しながら「ルーブル」やら「オルセー」と言っているのを聞きながら、僕はコーヒーの芳しい湯気を吸い込み笑みを浮かべる。残念、違う美術館なんだよ、かっちゃん。君の人となりを部屋中で堪能出来る、あの美術館に行きたいんだ。

「オランジュリーに行きたい」

 僕と生きていくことを決めてくれた君と、記念に行く旅行だ。そんな旅行が決まってからすぐ、浮かれて雑誌まで買ってきた僕に君は驚くほど優しく「早えよ」と言ってくれたっけ。かっちゃんは「そっちか」とこれまた意外そうに言って、僕の隣に腰を落ち着かせるとソファが二人分の重みに沈んだ。君のモネを僕が覚えているなんて、微塵も思っていないんだろう。

「オランジュリーって、なんか見てェのあんのかよ」
「別にいいだろ」
「……おい、なんか隠してんな?」
「ベーつにぃー」

 くすくす笑う僕が気に入らないのだろう、「言えやァ」と凄むかっちゃんの手が僕を捕まえる前に、さっと立ち上がって僕はマグカップを避難させた。意外と繊細な君のこと、やっとわかってきたんだ。隠し事されたら涙目になって拗ねちゃうのもね、だからちゃんと後で理由を教えてあげよう。
 あの秋の日に僕の腹の中で確かに感じた寂しさは、もうどこにもいなかった。

 

 

 

 君はモネ、僕はピカソ