プロヒーロー勝×プロヒ兼教師のデ
結婚済み
二人称視点
きみは今、車のナビと心無しかヨレている絵葉書を見比べながら、眉間に皺を寄せている。
近くまで来てからナビをセットすればいいかと高速道路に飛び乗り、最寄りのインターで降りてからすぐの道の駅に着いたのが約10分前のことだ。きみらしくない、やけに急いで家を出たせいでもある。これは誰のせいでもない。もちろんきみのせいでも、家で寝込むきみの配偶者のせいでもない。
そう、実のところ今日「きみ達」は一緒に目的地へ行くはずだった。どこへも何も、きみの手に持つ絵葉書を出した彼のところに他ならない。きみは「あんのクソジジイ、住所くらいちゃんと書けやぁ」と最近はなりを顰めていた歯軋りと共につぶやいた。
絵葉書は橙色の絵の具で乗り潰された、大胆な筆致の柿が大部分を占め、横に殴り書かれた文字は「春に山菜取りにこい」という一文。そのさらに下に潰れた文字で住所らしき走り書きがある。日本の田舎の住所は総じて長く、きみは「大字《おおあざ》」と書かれた文字以下がどうしても読み取れなかった。サイドブレーキを引いているとはいえ、きみがハンドルに項垂れるとその車体がボヨンと揺れた。
絵葉書を出した彼、ここはかつてのヒーロー名で呼ぶことにしよう。グラントリノはきみの配偶者、緑谷出久の師であり、きみ達の憧れであるオールマイトの恩師でもある。きみも学生時代から何度も会っているが、そこまで心通わせたことはない、きみから見れば掴みどころのない老人という印象だろう。それでも、きみがこんな山梨県の山奥で道に迷っているのは、なにもこの山奥で一人寂しく隠居生活を送る彼のためではない。もちろん自分のためでも、オールマイトこと八木俊典のためでもない。きみはきみの配偶者で幼馴染、ちょっとロマンチックに言えば「愛しい人」のためにここまでやってきた。え?なにクサいこと言いやがるって?いや、きみにこの言葉は似合わないのは知っている。それでも、きみにとって『特別』な存在が緑谷出久であることは誰の目から見ても明らかだ。それはあの当時、あの子の中に居た私から見てもそうだった。
きみは大きなため息を吐くと大体の目星をつけて車のナビをセットし、ついに道の駅の駐車場を出る。出る直前、きみは一瞬あの子に電話をかけようとした。しかしそれをしなかったのは、きみ達の朝の喧嘩が原因だろう。実のところ、来訪を促すような言葉とともに絵葉書が届いたのはこれで二枚目だった。もっと言うと、あの子、緑谷出久のところにはきみ達が一緒に住む前からずっと届いていたのだ。「グラントリノに会いに行かなきゃ」と絵葉書を見るたびに声に出すあの子に、きみは「雪解けたら行くか」と存外甘い声をさせて提案した。嬉しそうに笑ったあの子を見て、きみは「幸せ」が形になったら目の前の光景になるのか、なんてガラにもなく思ったわけだ。なに?脚色がすぎるって?それは失礼した。でも、あながち間違っていないということはきみの顔を見ていればわかってしまう。
そんなきみ達が予定を合わせて、やっと今日に至ったというわけだ。それなのに、きみ達が結婚してはや一年となったこの春、緑谷出久は季節外れの風邪を引いて昨晩帰宅した。きみもあの子も、働き盛りの年代で、上にも下にも責任がついてまわるポストになった。仕事に穴を開けるわけにはいかないとずいぶん前から、ヒーロー活動と教師業の両立で無理を重ねるあの子をきみは知っていた。きみはがっかりした。そう、これはきみ自身への失望だった。自分への怒りをコントロールできるようになったはずなのに、あの子の前では形無しのきみは、いっそ殴られたらよかったのにと今も思っている。
「……クソ」
ナビの音声は無常にも「目的地周辺です」と感情の無い声で告げた。きみは名ばかりの目的地に車の窓を開けてみる。どう見ても人の住む気配のない山道は、舗装はされているが、雪解けにより顔を出した昨秋の落ち葉が積もり、ガードレールの向こうは深い森が広がっていて落ちたらひとたまりもない。電柱もまばらで、真っ昼間のはずなのにどこか暗い。きみはエンジンを切り、車外に出た。山の空気は冷たく、小春日和となった都市部のそれとはまるで違う。きみは一息深呼吸をした。乾いていて、澄んでいて、肺に入ると少し痛い。あの子がいれば、たぶんこう言うだろう。
――かっちゃん、すごいよ。空気が甘い。
これは初めて一緒に登山をした時にあの子がきみに言ったことだ。あの時、甘いとは何だときみは言った。「空気に味なんざねぇだろ」と少し呆れながら、それでも一緒に深呼吸すると少し甘く感じたのをきみは覚えていた。
「……チッ」
きみの苛立ちの矛先は、自分自身に向いている。
いや、正確には違う。きみはきみ自身に向けているつもりなだけで、本当はまだ、燻ったままの何かが胸の奥に引っかかっている。それを認めるのが癪で、ただ乱暴に押し込めているだけだ。
――かっちゃんだけで行ってきて。
ああ、あの声は、ひどく静かだったね。あんなにも小さい声なのに、きみはきっと、騒音だらけのゲームセンターに居たってあの声を聞き逃さないだろう。熱に浮かされて、いつもより少し掠れていたくせに、妙に落ち着いていて、諦めたみたいな声音だった。きみはその言葉を、正しく受け取ることができなかった。
「……は」
きみの乾いた笑いが漏れる。雪解けによって増した水量が、いつもは小さい小川を氾濫させていた。きみは今朝のやり取りを思い出す。「かっちゃんだけで行ってきて」と、あの子はそう言った。私ももちろん聞いていたとも。それはつまり、「自分は行かない」と同義で、決してそんな言い方はしていないけれど、きみにとって「きみ一人で行けばいい」と突き放されたように感じたね。――そして何より、自分が行けないことよりも、きみに行ってほしいことを優先した言葉だった。
きみは思った。お前があんなにも、行きたがっていたくせに。絵葉書が届くたびに、あの子は指先でそれをなぞって、「春になったら」なんて何度も口にしていた。予定を合わせるのだって簡単じゃなかった。互いのスケジュールを擦り合わせて、やっと掴んだ一日だったんだ。それを、あっさりと。「かっちゃんだけで行ってきて」なんて、それはきみにとってとても“さみしい”言葉だった。
「……ざけんな」
きみはガードレールにもたれかかると、眼下の森に低く吐き捨てる。怒りの矛先は曖昧だったが、表向きはこんな山奥に案内させる羽目になったグラントリノの絵葉書だ。胸中ではあの子に向けているのか、それとも、それを受け取った自分に向けているのか、きみももうよく分からないだろう。ただ、分かっていることが一つだけある。あの瞬間、きみの中で何かがひどく軋んだということだ。――ああ、またか。そんなふうにきみは思ってしまった。
きみ達がまだ子どもだった頃、きみはその得体の知れない恐怖と戦っていた。物心ついた頃から何度も繰り返してきた感覚だったけれど、最近の穏やかな日常の中で薄れつつあった感覚でもある。あの子は、きみの知らないところで勝手に前に進んで、勝手に決断して、勝手にきみを置いていく。あの時確かに、よく遊んでいた公園で幼いあの子を置いて行ったのはきみなのに、振り返ってみれば置いていかれる側にいるのは、いつだってきみの方だった。
心の中できみはきみに反論しているだろう。セコンド、もしくは弁護人は次のように主張する。「今は違う! もう、あの頃とは全く違う。俺たちは対等で、俺もあいつも隣に立っている。選ばれて、選び返して、結婚までして、同じ家に帰っているんだ」
さて、反対尋問もきみか?分かっているさ、さあ、証人は一歩前に……おや、出ない。
あの子は、悪気なんて一つもなかったのだろう。むしろ、気を遣ったつもりだったに違いない。自分が行くと足手まといになるから、無理をするくらいなら、きみにだけでも行ってほしいと。ああ、きみが言いたいことはわかっているつもりだよ、そう、きみのことを考えている“つもり”で、きみを外す。きみを守ろうとして、きみを選ばない。それがどれだけ、癪に障るかも知らずに。
きみは噛みしめていた奥歯を解放し、やっと肺に空気を送り込むと、ガードレールと愛車の隙間に座り込んだ。あのとき、きみは何を言った。「そうだ、どうせ足手まといだ」――違う。そんな言い方をしたかったわけじゃない。けれど結果的に、そう聞こえる言葉をぶつけた。あの子の目が、一瞬だけ揺れた。それでも、あの子は言い返さなかった。言い返さずに、ただ「ごめん」と言った。その「ごめん」が、きみを余計に腹立たせた。謝ってんじゃねえ、と喉元まで出かかった言葉をきみは飲み込み、その代わり乱暴に上着を掴んで、玄関を出た。
引き止める声はなかった。それもまた、きみの中で何かを決定的にした。
「――随分遅いな、小僧」
不意に落ちてきた声に、きみは顔を上げた。きみがしゃがみ込むガードレールと反対側の木の上に、当然のように腰掛けている老人――グラントリノがいる。きみは舌打ちを一つして、視線を逸らした。見れば、余計なことまで見透かされそうで、たまらなかったからだ。
「元気そうじゃねえか、爺さん。字も満足に書けなくなってンかと思ったわ」
「道に迷っとったか。鍛錬が足りんな、ダイナマイト」
「絵の前に字の練習しろや」
「味がある字だと評判だぞ。デクは住所知っとるし」
そう言ってグラントリノが木の枝から音も無くアスファルトに降り立つと、きみの愛車の助手席へ乗り込んだ。きみは一人でやってきたことを暗に指摘され、バツが悪そうに運転席のドアを開けた。グラントリノに指示されながらナビをセットすると、きみ達を運ぶ車が目指す目的地は山道を三十分ほど登ったところだった。
きみの車の中では家を出た時から音楽も鳴っていなければ、ラジオもかかっていない。一人では気にならなかったきみだったが、グラントリノと二人きりだと少し気まずいという顔をしている。
「デクと喧嘩でもしたか」
伊達にヨボヨボのジジイになるまで生きてねえ、ときみは引き攣る頬を隠しもせず言葉に詰まった。数秒ののちにきみは「ただの風邪」とポツリこぼし、その言い訳のように言葉少なな様子にグラントリノは豪快に笑った。
「夫婦喧嘩は犬も食わんというぞ」
「いや、本当に喧嘩じゃねえ。ただの俺の癇癪」
きみはそう言いながらカーナビが示す分かれ道を恐る恐る右に曲がる。車一台分がギリギリ通れる車幅を慎重に進みながら、きみはグラントリノにさらに続けた。別に聞いていなくてもいいと、きみは思った。ただ、今まで誰に聞かせるものでもないと思っていた、これもきみの本音だった。
「アーマー、作らなきゃよかったって……あれは、間違った選択だったんじゃねえかって思っちまった」
きみの声は悪路を走るタイヤの音に掻き消されそうなほど小さかった。
「途中からわかってたんだ。教師とヒーロー、どっちも大事にしてるヤツだから、プロヒーローとして復帰したら、無理してでもどっちも成立させちまうだろって」
「そうだろうな」
「あいつは復帰してからアーマー使ってできること全部やってる。伸ばせる手はどこまでも伸ばして、文字どおり手が届く限り救ってンだ。ヒーロー“大・爆・殺・神ダイナマイト”としての俺も、幼馴染の“かっちゃん”としての俺も、それはとても誇らしいことだった。『負けてらんねェ』って、俺が憧れたヒーローに一緒に追いつける、追い越せるって……本気で嬉しかった」
「じゃあ、何がお前を苦しめとる」
きみはその言葉にブレーキを踏んだ。そこは対向車が来たら避けられるように、待避所が設けられた手前の道路だ。きみはこんな時でもヒーローとしての洞察力を失くしてはいない。きみもグラントリノも、体の芯に染み付いているのだろう。きみは苦しそうにハンドルに項垂れる。
「自分を優先してほしい」
「それは、“爆豪勝己”としての本音か」
「何様だって思う、どの口が言ってンだって。邪魔してェわけじゃねえのに。今日のこと、ずっと楽しみにしてたのはてめェ自身のくせに、なんで自分を蔑ろにできんだよ。俺は、お前がッ――」
きみはパクパクと口を開けては閉ざしたけれど、その先はついぞ言葉にできなかった。きみはこれを言ったら嫌がるだろうな。きっと今、きみは泣いている。きみの配偶者は、きみが思いの外泣き虫なところもとても好んでいる点だろうけど、今日ばかりは分が悪い。だってあの子は自分のために泣かれるのにてんで弱いのだ。
「託されるのは、すなわち置いていかれることなのかもしれんな」
グラントリノの声にきみはハンドルに伏せていた顔をゆっくり上げる。横目でちらりと助手席を見れば、グラントリノは「進め、ダイナマイト」と何食わぬ顔で言ってきた。相変わらず何を考えているかわかりづらい爺さんだ、ときみは感じている。もうすぐ家に着くからと、急かすようにグラントリノが杖で車のダッシュボードを叩いたのと、きみがアクセルを再度踏んだのは同時だった。
もちろん、託したのも置いて行ったのも私のことに違いない。きみはもちろん知らない、もう随分昔の話だ。
きみがノロノロと細い道を運転すること数分、目の前に小さいながら新し目の平家が現れた。屋根の上には細身の煙突が出ており、平家に隣接する広い軒と小さな作業小屋へ積まれた薪をみるに、家の中には暖炉があるのだろう。グラントリノから空いている所に駐車するよう言われたきみは、家と小屋の中間地に無造作に車を停めた。きみがエンジンを止める前に、グラントリノは助手席のドアからひょいと外へ降り立った。グラントリノの影がその身長をゆうに越して伸びている。どうやら随分日が傾いてしまったようだ。
グラントリノは一足先に作業小屋の中へ消えて行ったもんだから、きみは後を追って行った。暗い小屋の中からグラントリノの声が聞こえる。
「なんの山菜がいい、好きなもんあるなら言え」
「あー……ワラビとか?」
「ワラビにはまだ早えな。今ならコゴミか」
「出久はタラの芽も好きだ」
「惜しいな。タラの芽もあと二週間ってとこだ」
西日はあいにく小屋の入り口に対して逆光になっていた。きみは薄暗い小屋の入り口で佇むと、グラントリノが急かすように手招きしていた。どうやらきみに手伝ってほしいことがあるようだ。そうだ、きみ、そこの棚の上の新聞紙を取るように言われるぞ。「そこの紙」ほら、やっぱり。きみはキョロキョロと周りを見渡し、数日分の積まれた新聞紙を手に取った。きみは思いの外新しい日付の新聞を見て、こんな山奥まで毎朝配達に来る新聞屋を気の毒に思った。バサリ、と音を立てて一枚開くと、一面を飾るきみの幼馴染。随分平和な世の中になったとはいえ、未だヴィランによる犯罪も起こり続けている。それでもこの記事の時は久しぶりの大捕物で、きみ達の級友も多く出動していたね。“ワン・フォー・オールヒーローデク、今日も大手柄!”大きな見出しは緑色のゴシック体で強調されていた。宙に浮遊したきみの『愛しい人』は、黄色いマントをはためかせ彩度の低い写真の向こうで笑っている。
「このウルイ、それ使って巻いてくれ」
声を聞いて弾かれるように顔をあげたきみに向かって、暗闇の向こうでグラントリノは一瞥した。きみの手の中にある新聞の一面に気づくと、ニヤリと不敵に笑う。
「別に、開いたら偶然このページだっただけだ」
「なんも言っとらんが……まあ、二週間経ちゃァ、風邪も治るだろう」
きみは手の中の新聞が皺になるほど強く握りしめ、口を真っ直ぐ引き結んだ。気づけば夕刻となり、あの子の熱は解熱剤で下がっている頃だろうか。きみはポケットに手を伸ばす。そこには今日何度もかけようとして出番のなかった携帯電話が静かに居座っていた。
「正解っつうのは一体全体なんなんだろうなぁ、大・爆・殺・神ダイナマイト」
そこからのきみの行動は素早かった。こんな山奥に電波が通じているかだけがきみは心配だったけれど、そこは新聞配達も来るくらいだ。電波はもちろん、実はグラントリノの自宅には光回線だって通じている事を、きみは知らない。
コール音は三回きっかり鳴って、電話の向こうにあの子が出るときみはひとつ深呼吸をして声を出した。
「熱、大丈夫か」
『……うん、もう平熱近くまで下がったよ。かっちゃんは大丈夫? グラントリノの家まで無事着いた?』
「なんとか。爺さんの字が汚くて焦ったわ」
「味のある字だわい」
電話機を通した声でもわかるくらい、昨晩より元気になったあの子の声に、きみは静かに安堵している。グラントリノの茶々を入れた声が拾われたのか、電話の向こうで『グラントリノ! お元気そうで何よりです!』とあの子が律儀に返事をしていた。
きみは皺のできた新聞紙を作業台の上で押し伸ばし、片手で器用に山菜を置くとくるくると巻き始める。「ウルイ、持ってく」と、先ほどグラントリノが言った「ウルイ」という名の山菜にきみは聞き馴染みも無かったが、電話口のあの子に向けて知ったような口ぶりで言った。きみの一番好きな声であの子が『楽しみ』と言えば、きみは百万馬力の、まるでオールマイトになったかのような気持ちになる。そう、いつだってそうだった。
「出久」
『かっちゃん、謝らないで』
「ンでだよ……」
『君が間違ってるかわからないまま、その言葉を聞いてしまうのは不誠実だと思ったんだ』
きみは電話越しでもわかるほど、あの子が真っ直ぐ自分を見つめているような気がした。それはきみが幼い頃、きみ自身を俯瞰して見られているようでおそろしく感じていたあの子の強さだ。
『帰ってきたら、かっちゃんと話がしたいよ』
グラントリノはもう電話に加わらず、小屋の中できみが山菜を持ち帰るための準備をしている。年寄りというのはなぜ、食べ切れない量の土産を持たせようとするのか。いや、これは今必要な議題ではないだろう。とにかく、きみが飲み込んだあの子への謝罪は、喉に張り付いていた後悔や悲観を根こそぎ胃の中に流し込んでいったようだ。
「タラの芽の旬は今じゃねえって、知ってたか?」
『知らなかった。食べたかったなぁ……タラの芽の天ぷら僕好きなんだ』
きみは心の中で「知ってるっつうの」と呟き、級友の轟焦凍が教えてくれた蕎麦屋に二人で行った時の、タラの芽の天ぷらを頬張るあの子を思い出して思わず笑みを浮かべた。
「グラントリノの爺さん家、スッゲー山ん中なのに新聞取ってんの。知ってたか?」
『知らなかったな……毎朝配達大変そうだね』
きみは「俺もそう思う」とこれは優しそうな声が出て、くすくす笑うあの子は楽しそうに相槌した。きみはジーンズの尻ポケットに入れたままだった、橙色の大きな柿が描かれた絵葉書を手に取る。続く言葉は、きみが思うよりすんなりと音になってあの子に届いた。
「俺さァ……出久に置いてかれんの怖えんだって、知ってた?」
『……知らなかった。君に、怖いものなんて無いと思ってた』
あの子は『教えてくれてありがとう』と電話の向こうで鼻をすすって言った。ああ、きみは泣いてほしいわけじゃ無かった。そうだろう?あの子がきみの涙に弱いように、きみももうあの子に泣いてもらっては困るんだ。きみ達が家族になった時、あの子の親にも、きみ達の憧れの師にも誓ったのだから。
そろそろ日も落ちる頃合いだ。きみはグラントリノからずっしりと重くなった肥料袋を両手で受け取った。山菜やおまけの野菜で満杯になった袋にきみは苦笑し、肩と頬で挟んだ携帯電話にいつもの調子で言い放った。きっとあの子が笑ってくれる、そう確信した言葉だった。
「二週間後に、タラの芽取りに来んぞ」
切る直前、電話の向こうに嬉しそうな声を聞いて安堵したきみは、運転席に乗り込んでシートベルトを締める。きみが車の窓を開けると、近づいてきたグラントリノは「暗くなってきたから、気をつけろ」「次はもっと早く来いや」と小言を一つ二つこぼした。きみは「わぁっとる」とぶっきらぼうな言葉と裏腹に会釈してこたえた。
きみは今でも、正解も不正解もわかりやしない。でもそれで良かった。きみは確かに今日、わかったことが一つある。どうやらあの子といれば、きみは吸い込む空気を甘く感じるらしいということだ。
きみは自宅へ帰る前にその場でカーナビの地点登録をした。次にきみ達二人で来るときは、空彦の家に迷うことなくたどり着くだろう。山ばかりで何もないカーナビの地図画面に、青いフラッグが一つ追加された。それは、きみの道標に違いなかった。
春はあなたを待っている