勝デ前提の洸→出
時間軸はデがプロヒに復帰した後
後味悪いです
中学時代、前の席に座る女子たちが話していた話題を盗み聞いたことがある。女子グループの一人が卒業する先輩に告白するとかしないとか、初恋だなんだって騒いでた。「初恋」は薄い黄色のレモン味、と一人の子雑誌を指差しながら力説していた。俺はそれを聞いて「違う」と思った。思うだけでなく声にも出していたようで、女子のグループからは「出水に言われたくなーい」「まだ出水には早かったね」などと揶揄われた。バツが悪くなった俺はキャップを深く被り直して机に突っ伏した。
俺の初恋は、目が覚めるような「赤色」と「血の味」だった。
***
緑谷兄ちゃん――いや、デク先生が黒板に向かってお世辞にもキレイとは言い切れない板書をする背中を、俺はいつも縋るような気持ちで見つめていた。次に振り返った時、緑谷兄ちゃんの眼に一番に映るのが俺だったらいいのに、と。でも、だからすぐに気づいてしまったんだ。世界中を救った大英雄に相応しい傷だらけの左手薬指に、キラリと輝く銀色の細い一本線を。なんの装飾もつかず控えめに輝くそれは緑谷兄ちゃんによく似合っていて、同じものをつけている相手は緑谷兄ちゃんのことを頭のてっぺんから爪先まで知っているんだろう、とその強い繋がりをまざまざと見せ付けられた気がした。
最初に声をあげたのは一番前に座っていた女子生徒だったと思う。
「あ! 先生それ! 指輪!?」
「結婚したんですか!?」
「結婚式に呼んでくれてもいいのに〜」
一度誰かが指摘してしまえば、みんなの目はデク先生の左手に釘付けだった。緑谷兄ちゃんは勢いよく振り向いて、動揺したのかチョークを落として目の前に白塵が舞っていた。慌てて拾うことも出来ず、左手を隠そうと必死だった。気合いを入れて腕まくりしたワイシャツが仇となり、顔の前で交差したその隙間から真っ赤になった緑谷兄ちゃんの顔が見える。元クラスメイト達の協力によって緑谷兄ちゃんが、無個性でありながらプロヒーローに復帰したのは記憶に新しい。腕まくりしたそのワイシャツの中にも、アーマー発動時の補助着を着込んでいるのだろう。ここ最近の緑谷兄ちゃんは少しサイズの大きいワイシャツを着ていて、それがまるで「誰か」のワイシャツを緑谷兄ちゃんが着ている様に感じ、俺は得体の知れない胸のザワつきを感じていた。
「け、けけけ結婚!? しない、まだしないよ!」
「“まだ”ってことは……婚約ですか〜?」
「相手は誰ですか!?」
「プロヒーローの誰か? それとも先生の誰か?」
「女子アナっすか!」
これ以上黙ったままでは収拾がつかないと思ったのか、緑谷兄ちゃんはソロリと交差した腕を解き、それでも頬を桃色に染めながら小さくつぶやいた。
「……ずっと隣を走っていたい、大切な人だよ」
誰も見たこと無いくらい、あまりにも幸せそうに緑谷兄ちゃんが笑うもんだからみんな呆気に取られてしまったんだと思う。一瞬の静寂の後、クラスで一番騒がしいムードメーカーが「えーもう少しヒントくださいよー!」と言って食い下がると、緑谷兄ちゃんはいつもの「デク先生」に戻り、黒板にいつの間にか書かれた数式を指差して「これ正解したらね」と言って不敵に笑った。エクトプラズム先生並みの趣味に走った数式は、チャイムが鳴るまで誰も解くことが出来ずに新しいヒントは結局もらえなかった。この日の休み時間はもっぱら「デク先生の恋人候補」の話題で持ちきりだ。やれ「この間取材を受けてた女子アナだ」だの「プロヒーローの同期だ」だの「雄英時代の後輩だろ」と言いたい放題だった。俺は自席の机に頬杖をつき黒板を睨みつける。キレイに消され跡形も無くなった数式を、もう誰も解こうとはしていないようだった。
*
緑谷兄ちゃんとは付き合いが長い分、他の生徒より気にかけてもらえていると思う。でも、だからこそ俺と一線を引こうとしているのを時々感じていた。特別扱いは出来ない、するべきではない――兄ちゃんが教師として理想を目指せば目指すほど、俺のアドバンテージが消えていく。
放課後、ほぼ全ての生徒が帰って閑散とする教室で俺は待っていた。フロアごとに割り振られた戸締り当番、緑谷兄ちゃんの今月の当番が俺たちの学年だということは事前に知っていたことだ。バリアフリーのため無駄に大きい教室のドアが音を立てて開かれると、俺を見つけた緑谷兄ちゃんは「あれ」と大きい眼をさらに大きくさせて驚いていた。
「洸汰くん……! まだ居たんだね、何かあった?」
いつもは距離を置いて「出水くん」と呼ぶ声が、一オクターブ高く俺の下の名前を呼ぶ。背はもう同じくらいなのだから、小さい頃のように視線を合わせる様なことはされない。しかしどうも子ども扱いされているようで、俺は名前で呼ばれる嬉しさを覆うほど「やめろ」と口汚く罵ってしまいたい凶暴な衝動に駆られる。
「……これ、解いてた」
俺は緑谷兄ちゃんに机の上に開いてあったノートを見せる。緑谷兄ちゃんは机の上からそれを取り、暗くて見えづらいのか顔の近くまでノートを持ってきてじっくりと読み始めた。
「これ……さっきの」
「うん、最後の問題」
「すごいよ! 正解だ。よく頑張ったね」
緑谷兄ちゃんは胸ポケットから四色ボールペンを取り出すと、答えの書かれたところに赤色の花丸をつけてくれた。横にはご丁寧にニコニコマークまで添えてある。そのまま閉じたノートを俺に返そうとした緑谷兄ちゃんは、「あの」左手でノートを手渡してきた。俺は手を伸ばし、緑谷兄ちゃんがノートを掴む方と反対側を掴むことなく通り越し、そのまま彼の左手を掴んだ。驚く緑谷兄ちゃんが咄嗟に身を引こうとしたから、俺は逆に力を込めずそのまま身を任せるように緑谷兄ちゃんの方へ倒れ込んだ。黒板と教卓の間にすっぽり倒れ込んだ緑谷兄ちゃんは、倒れ込んだ反動でノートを放り出していた。教卓の下には俺のノートが解いた数式のページを開いて落ちていたが、俺が上から伸し掛かるせいで身を起こせない緑谷兄ちゃんからは確認出来ていないだろう。
「どうしたの? 何か気に触ること言ったかな? あ、ニコニコマーク嫌だった――」
「ヒント、くれるって言った」
緑谷兄ちゃんのいつものマシンガントークを遮って俺がそう呟くと、目の前の形のいい唇から言葉が出てくることは無く、代わりにいつもはきっちり締められたネクタイが隠す喉仏が唾を飲む音とともにゆっくり動くのが見えた。俺はそれを見て、緑谷兄ちゃんがワイシャツの第一ボタンを外しているのに気付いたんだ。それに伴いネクタイは緩められ、俺の目には「誰か」のワイシャツは脱がされるのを待っている様に映った。兄ちゃんほどのヒーローが、ヒーロー科所属とはいえたかが高校生の拘束を解けないとは到底思えなかったが、起き上がらないのを良いことに俺は握ったままの左手首を持ち上げる。
緩慢な動きだ。ゆっくりと見せつけるように俺の顔の前に移動した兄ちゃんの左手は唯一の抗いとして固く握り込まれていた。薬指の銀色は暗い教室の中で何故か輝きを失っておらず、俺は衝動的に噛みついた。緑谷兄ちゃんはそれを見て、弾かれるように俺の右手から自らの左手を救出させる。軽く噛みついたつもりだったが、歯と金属がぶつかる嫌な音が響いた。
「なんで……?」
俺だけのヒーローが黒板の下で狼狽えているのを見るのは、初めて炭酸ジュースを飲んだ時のように体中が痺れて気分が良かった。
窓の無い雄英高校の教室では、電気さえ消してしまえばすぐに薄暗い教室の完成だ。廊下に続く出入り口のドアの小さい窓から差し込む夕陽だけを頼りに、目の前の柔らかそうな癖っ毛を触る。見た目より硬めの、意志の強い癖っ毛だった。「なんで」だなんて、俺が一番知りたかったんだ。たった数ミリの金属が左手の薬指についているからって、その人自身を縛り付けておけるはず無いのに。緑谷兄ちゃんがそれを受け取って、受け容れて、愛を誓う人がいるなんて、なんという果報者がこの世にいるんだろう。
「……ねえ、兄ちゃん」
日没前の夕陽が一筋差し込み、緑谷兄ちゃんの指輪に反射して俺の目を窄ませる。まるで緑谷兄ちゃんを守るように、歪な左手に鎮座する小さい金属は「デクはぜってぇ渡さねえ」と言っている様だった。俺は先ほど指輪を噛み損ねたせいで傷ついた歯茎を口内でひと舐めする。
「指輪って、血の味がするんだね」
俺の失恋は、目が覚めるような「赤色」と「血の味」だった。
赤に焦がれて