高校三年になった二人が小旅行に出かける話
付き合ってません
「かっちゃん、何か欲しいものある?」
寮のエレベーターに乗り込む直前、出久が「あの……」と意を決した様子で俺に問いかけた。出久は伸びた前髪で目線を隠すようにおずおずと、最近めっきり聞かなくなったブツブツ喋りを続けた。全容を把握できた訳ではないが「かっちゃん」「もうすぐ」「誕生日」という三言で合点がいく。俺は三年になってさらに伸びた背を少し傾け、目を背ける出久の顔を正面から覗き込んだ。
「いらねェ」
「え……」
「俺らの生活費を親から貰ってる以上、そういうンいらね」
俺がそう言うと、出久は引き結んだ唇を何か言いたげに震わせて、それでもやっぱり何も言わずに薄く笑った。
「そうだね……うん、その通りだ」
「欲しいもんも今はねェし、インターンで貰った金は出久が欲しいもんに使えよ」
出久は「わかった。ごめんね、引き留めて。おやすみなさい」とエレベーターに乗り込む俺の背中を押した。エレベーターの扉が閉まるギリギリに見えた出久の顔は、おつかいで店までの道がわからなくなった幼子のようで、俺は今も忘れられないでいる。
――そんなことがあったのが今から約三ヶ月前のことだ。梅雨入りも早々に蒸し暑い日が続く夏の始まりに、寮のエレベーターでまたもや出久に呼び止められた。
「かっちゃん」
おずおずと声をかけた前回とは違い、出久はいやにスッキリした顔をしていた。俺が体を傾けなくても正面から俺を見据えて、健康的な唇からは澱みなく言葉が紡がれる。俺はその唇が大きく動いて俺の名前を呼ぶのを、直視しては目が焼かれるような気がしてするりと目線を外した。
「ンだよ」
「君からプレゼントが欲しいんだ」
「はァ?」と俺が二の句が継げないでいるのを知ってか知らずか、出久はさらに勝手なことを言い出した。「もうすぐ僕の誕生日なんだけど」おお、そうだな。お前の誕生日だ。「君の誕生日に何もあげられなくて、君に「自分のために使え」って言われたから」そう言ったのをよく覚えている。そもそも突拍子もなく俺に誕生日プレゼントをあげたいんだと言われたのだ。俺はお前のためにそう言った。「君と僕でできることに使えば、一石二鳥なんじゃないかって」そう言う出久に、俺はその口を止めようと左手で出久の顔を覆ったが、出久の唇は止まるはずもなく尚も続いていた。俺も昔のように威嚇爆破なんてするつもりはさらさら無いのだが、図太くなった出久の変化に内心安堵していた。
「君と旅行に行きたいんだけど、どうかな」
見た時の印象と違わず、感触までも健康的な出久の唇が俺の手のひらを掠って擽る。手の中で出久が声を出したことで湿った吐息が生暖かく、個性の関係で人より発達した俺の手のひらの皮膚がそれを感じ取った。ああ、嫌な感じだ。腹の奥がむず痒く、手のひらの湿気は出久の吐息のせいだけではないと、俺は早々に気づいていた。
「旅行」
「うん、僕も君も楽しめること。もちろん、インターンで貰ったお給金で行ける範囲で」
「未成年が二人で宿取れんのか」
「親に同意書を貰えば大丈夫だって」
顔を塞がれたままにしていた出久が、俺の手に自らのそれを重ねて軽くどかすともう一度「かっちゃん」と俺を呼んだ。その「かっちゃん」には幾度と呼ばれた今までのそれらと全く違った。懇願、興奮、不安、そして少しの自信。俺が最初に言ったんだ、出久が欲しいもんに使えって。まさか断らないよね?断らないで、お願い。まるでそう言っているような「かっちゃん」に俺は耐えらず、出久の手を力無く振り解いて言った。
「まあ、休みが被ればな」
俺がそう言うと出久は嬉しそうに行き先の候補地を話し始めた。「温泉の効能で選ぶか、名物料理で選ぶか」と捲し立てる出久を横目に、俺はインターンで忙しい週末を思い、いつになることやらと悠長に構えていた。しかし、二人の連休が重なる日は俺が思っていたよりも早く訪れたのだ。
*
「何度も乗ったことあったけど、終点まで行くのは初めてだ」
各駅停車で目的地まで約三時間かかる鈍行列車に朝一番の始発で乗り込めば、出久はボックス席の向かいでいつものリュックから駄菓子を取り出してそう言った。「かっちゃんもいる?」といくつか提示された中から、俺は小さいプラスチックに包まれたラーメンスナック菓子を手に取った。蓋をめくって中身を容器から直接口に放り込めば、一瞬で無くなってしまう。あんなにもちまちま一粒ずつ食べていた幼少期は、数十円で食べられる最高のご馳走だったはずなのに、時の流れは残酷だった。
「小学校の、遠足の時思い出しちゃって買ってきたんだ。かっちゃんの分ももちろんあるから」
「ちゃんと一人三百円以内にしたのかよ」
「えっ……五百円じゃなかった?」
「三百円だろ」
「物価高だから……あ、このコーラのやつは飲み物判定でひとつ勘弁して!」と言い訳する出久が間抜けで、ツボに入った俺が喉の奥で笑う。出久もつられて笑うと早朝故に静かな車内で、それは思ったより広範囲に響いてしまった。「あ」と口を紡ぐ出久が今度は顔を近づけて、ヒソヒソ声に切り替えて話し出す。口を窄めるのに合わせて何故か目蓋も半分閉じて話しているのが出久らしくて、俺はまつ毛の影で深緑に変化したその瞳から目を逸らした。
「着いたら何したい?」
「やっぱ魚じゃね。漁師食堂」
「ちょっと早いけど、混む前に行っちゃうのアリだね」
「チェックインは」
「一応十五時にしといたよ」
俺は事前に調べておいた宿のある周辺観光マップをウェブのブックマークから開いてスクロールさせる。ものの数秒で一番下まで到達してしまうほど、観光という観光する場所は無い、寂れた漁師町だ。出久から「ここにしよう」という提案があった時「なぜ」と思うと同時に理には適っていると思った。俺たちの住む場所から、電車一本で行ける一番遠い町だったからだ。
飯食い終わったあとは、宿までゆっくり向かうのも悪く無い。天気が良ければ海辺でも散歩すっか。件の食堂から俺たちが泊まる太平洋が一望できる宿まで、どう見積もっても歩いて三十分もかからないだろうが、他に行くところも提案できそうになかった。
出久も同じようにスマホを見ているがヤツはまだ俺が提案した漁師食堂に釘付けのようだ。「アジフライ大きさヤバ」「煮付け美味しそう」「やっぱり日替わり海鮮丼かな」などとブツブツ呟く出久の声をBGMに、電車は徐々に市街地から抜け出て海沿いの県道を沿うように走り出す。俺はイヤホンをせずに長時間誰かと乗る電車も案外悪くないか、と自然に口角が上がるのを感じた。
*
降り立った古い無人駅はどこからともなく潮の香りがした。
木枠の黒い箱が改札の横に設置されており「きつぷはこちらへ」という白い筆文字が掠れて消えかかっていたが、かろうじて確認できた。切符を入れるのを迷っていると、折り返し運転の準備をしている車掌が「そこに入れて」と声をかけてくれたため、二人して恐る恐る切符を入れて駅の外へ出た。
駅前と呼ぶには心許ない広場には、タクシーが二台電車から降りた客をつかまえようと待っていた。俺たちは事前に調べていた食堂の方向へ歩き出そうとスマホでマップを表示させた。歩いて二十分、高校生の俺たちなら車で移動するほどではない。俺たちが乗らないとわかったタクシーは、いつの間にか広場から一台、二台とその姿を消した。
入り口に掛かるのれんの色褪せ具合から、ここが名店であることを確信させていた。お目当ての漁師食堂は県道沿いのわかりやすい立地だったにも関わらず、俺たちの目論見より到着に多少の時間がかかった。途中で歩道橋を渡る老婆の手伝いをしたためでもある。
やっと着いた嬉しさから出久はガラスの引き戸を強く開けて「こんにちは」と中へ入って行く。意外と軽い滑りだったのだろう、引き戸は勢いよく最後まで開かれ、反動で少し戻ってきていた。
小上がりの畳テーブル席に案内されると、俺たち二人の前に薄い色合いの麦茶が提供された。壁際に貼られたメニューを見るために出久が俺に背を向けた。俺も同じように斜め上の短い短冊を左から順に確認していく。日替わり海鮮丼、もしくは日替わり煮付けがきっと一番人気メニューなのだろう一番大きい短冊に花丸までついていた。俺は後頭部しか見えない出久が百面相して悩んでいるのが手に取るようにわかった。お前、あんだけ電車の中で悩んでたじゃねえか。まだ決まってねえのかよ、と俺は呆れながら麦茶に手を伸ばす。案の定麦茶はほとんど味がしなかった。
「お決まりですか」
「え! あ、えっと」
年配の配膳担当が注文票片手に厨房から出てくると、出久は後頭部をぐるりと戻し、俺を見た。「どう?」「決まった?」子犬のような目で僕はまだと言っている出久に、俺はピリオドを打つべく声を発した。
「エビフライ定食一つ」
「はい、エビ定ワン」
「あ、じゃあ僕、アジフライ定食で! お願いします!」
「アジ定ワン」
さらさらと注文票に書き入れた後、厨房に向かって「エビ定、アジ定、それぞれワン!」と大きな声が通った。それに「はいよー!」と応える声もまた女性だった。男は海へ、女は厨房なのだろうか。結局日替わりをどちらも頼まず、フライ物ばかりになった俺たちはまさしく十代の学生に違いなかったし、出久は麦茶を一口飲むと「なんか薄……」と言っていた。
細く刻まれたキャベツの横には二本の塔がそびえ立ち、自家製だというタルタルソースはわざわざ別の容器に入れられていた。荒く刻んだ玉ねぎとゆで卵がマヨネーズに絡まりごろごろ入っている。想像以上にでかいエビフライに俺がガラに無く興奮すると、出久も幅広のアジフライを箸で掴み上げて目を輝かせていた。見間違いだろうがヨダレも口の端から垂れていたかもしれない。
俺もエビフライを箸で掴むと、重いと感じることすら嬉しさが勝った。タルタルソースにエビのてっぺんを潜らせると、そのまま口へ運ぶ。さっくりとした衣と同時に「プリッ」とを通り越し「ブリンッ」とした食感のエビが、一口のボリュームとは思えないほどだった。俺はこの口のままご飯をかき込みたいという一心で米を口に運んだ。ごきゅんと喉を鳴らして飲み込んで、正面の出久を見れば出久も一口目を同じように終えたところだった。
「……サクサクの衣、ふわふわのアジの白身」
「……エビ、身がやべえ」
学校で食べるランチラッシュの飯は確かに美味いし、エビフライだってそれなりに美味かったはずだが次元が違った。これが、これこそがエビフライだったのだと海老の地力でわからせられる。いくら日替わりの海鮮丼や煮付けが人気だったって言っても関係ねえ。図らずもお互いフライ物を頼んでいた俺たちの思考は合致して、数分後の俺の皿にはエビフライの横にアジフライが鎮座していたし、出久の皿は俺と同じおかずが乗っていた。
*
「はぁ〜〜〜美味しかった〜〜〜」
店内にご飯おかわり無料の文字を発見した俺たちはその後二杯目の白飯を食べ切ると、満足感の余韻そのまま店を出た。出久は夏の暑い日差しに向かって背筋を伸ばし、俺を振り返ると「美味しかったね」ともう一度言った。俺は頷いて同意し「麦茶は薄かったけどな」と言えば出久はかっちゃんもそう思ったんだ、と楽しそうに笑った。
腹ごなしに海辺を歩いたがこれと言って見る所も無く、ダラダラと歩いてものの数十分で目的の宿に到着した。俺たちはチェックインと同時に親からもらった二人分の同意書を鞄から取り出し、出久が代表して提出するとフロントの受付係から「あら」と声が上がった。
「お二人とも成人してらっしゃるので、同意書は必要なかったのですが……」
成人は十八からで、確かに出久は先日の誕生日で十八歳になったところだ。契約も投票も自分で出来るようになるのだ、成人とはそういう責任が伴う――とそういえば授業で口酸っぱく言われていたのだが、俺も出久も成人したという事実に、頭が追いついていなかった。出久は受付係に同意書を手渡しながら「こ、高校生なんです。僕たち」と伝えていた。
思ったより早く宿に到着してしまった俺たちは、和室に荷物を置いて館内案内図を確認していた。飯の前に温泉に入るのはマストとして、それにしても早く着きすぎた。出久が予約した宿はリゾートホテルと旅館の中間のような、それなりに古い宿だった。窓から見える芝生の庭にはプールまであり、バブル時代の名残を感じさせた。
「かっちゃん、これ」
「……『各種遊具 貸し出します』?」
出久は館内案内にひっそり書かれた「芝生で遊べる遊具一覧」を俺に見せつけてきた。俺はまじまじとそれを見ると、出久は「まだお風呂行くには早いし」と続けて言った。確かに一汗かいてから風呂に入るのも悪くない。俺は二人で出来る遊具に絞り、フロントでバドミントンのラケットを借りて中庭に降りた。天気は良いが誰も遊んでいる者は居らず、だだっ広い緑の芝生と青い空が眩しかった。とことこと先を歩いていたら出久が、数メートル離れた先で振り返り「いいよー」と俺に声をかける。
「いくぞ」
ラケットを下から振り上げ、シャトルを軽く飛ばすと青い空に白い三角が舞い上がった。出久は落下地点まで移動し、同じように軽くラケットを振ってまた小さい白色が舞い上がる。風はほぼ無く、出久からのシャトルはドンピシャ俺の目の前に届いた。俺は今度は上から振り下ろすようにシャトルを叩き、先ほどより少し速く鋭い軌道で出久を目掛けて飛ばした。出久は「わあ」と言って胸近くに入り込むギリギリを上手く捌いていた。また打ちごろのシャトルが舞い上がる。俺は数歩後ろに下がり、また上から叩くように振り下ろした。バシュンといい音をさせて出久へ向かう白い羽根。出久はまたもかろうじてラケットに当てたが、カツンと当たりどころが悪かったのか、数歩下がっていた俺のかなり前に呆気なく落ちた。
「ッ……てめ!」
「うわあ! ごめん! 打ち損じた」
始まってしまえばお互い「本気」になってしまい、何度かラリーを続けて一時間も経とうかと言う頃にはお互い息を荒くさせて芝生に転がり込んだ。そもそも先に落ちた方が負けと言う感覚になるラリー方式が悪かった。俺も出久も落としたのが自分となれば「もう一回」と言わざるを得ない。
「ハァッ……俺の……勝ちだ」
「うっ……も、もう一回……」
「いや、もうそろそろ風呂入んねえと……」
「ズルい! 勝ち逃げじゃないか」
寝っ転がったままずるいとムクれる出久の頬を、上から覆い被さって左手で挟みその空気を逃すと、緑色の双眸にくっきり俺が映り込む。見開かれさらに大きくなった瞳とともに一瞬息を呑んだ出久を尻目に、俺は二人分のラケットを持って立ち上がった。「かっちゃん!」と焦った声が俺の背中にかかる。汗をかいた背中は気持ち悪いはずなのに、思わず駆け出したくなるほど愉快だった。
*
せっかく早くチェックインしたというのに、思ったより白熱したバドミントンのせいで夕食前というゴールデンタイムにぶつかり、大浴場は混み合っていた。洗い場の順番待ちのようになっていたから、俺も出久も汗を流す程度で早々に上がり、夕食のバイキング会場へ向かうことにした。露天風呂に未練がある様子の出久を、夕食後に改めて来るぞと言いくるめて大浴場を後にした。
「うわあ、どれにしよう」
「おい、袖を気にしろ」
お盆を持ちながらバイキングの順番待ちをしている出久は目の前のテーブルのさらに先に夢中で、いつもより長い浴衣の袖を持て余していた。俺は幼子にするように捲り上げてやろうかとその袖を取ったが「もう、かっちゃんやめてよ! 気をつけるから!」とやんわり拒否された。湯上がり故か幼子のようにされた羞恥心からか、出久の頬はうっすら桃色に染まっていた。
和食も中華もイタリアンもなんでもござれな夕食バイキングは、育ち盛りの俺たちにぴったりだった。出久は九つに分かれた皿の三つのスペースを使ってラザニアを取っていた。せっかくシェフに焼いてもらったステーキさえもセパレートされた小さい皿に乗せていたのを見て、俺は果たしてこいつと分かり合える日が来るのだろうかと改めて思ったものだ。おい、頼むから酢豚の横に寿司を置くな。頼むから。
飲み物は僕が持ってくる!と出久が意気込んで持ってきた麦茶が、果汁100%リンゴジュースで俺が吹き出す羽目になったり、ボイル蟹の食べ方を指南していざ自分が食べる分は中身がほぼ無かったり、出久は案の定袖を蕎麦つゆに浸したりということがあったが概ね満足して部屋に戻った。出久曰く、昼の麦茶に目が慣れすぎて、薄い茶色を麦茶だと思ってしまったとかなんとか。
部屋に戻ると綺麗に布団が敷かれていて、俺も出久も各々の布団にダイブした。バイキングは食べすぎちまうところが玉に瑕だ。
「食べたな」
「食べたね」
テレビも着けない静かな室内にエアコンによる適度な涼しさ、満腹感も相まってパリッとした触感に敷かれたシーツの心地良さが眠気を誘う。食べてすぐ寝るなんて俺の美学に反するが、今日くらいはいいじゃねえか、と悪魔の俺が囁いてくる。薄れゆく意識の中で「かっちゃん?」と俺を呼ぶ出久の声が聞こえた。そうだ、風呂にもう一度入ろうって言ってたっけな。
*
「かっちゃあん……!」
手に持っているペラっとした小さい紙切れは出久の涙と汗でぐしゃぐしゃになっており、その紙をよく見ると俺たちが幼い頃に流行った特撮物のヒーローがポージングを決め、その上部に「夏休み特別ロードショー」の文字が見えた。
出久は俺に手を引かれながら見慣れた公園をトボトボと歩いて泣き続けている。
夢を夢と認識するなんて、なかなかあることじゃねえが俺はこれが夢だとわかって今ここにいる。夢というより過去だ。俺はこの日を知っている。
この日、俺と出久は幼稚園の帰りに貰ったそのチケットを手に、意気揚々と地域の公民館へ出掛けた。そしたらなんだ、映画が見れるわけじゃなかった。無料券じゃなくて割引券だったんだよな。幼い子供相手になんっつう罠仕掛けてくれとんだと。
「ごめんねえ坊やたち、チケットのほかにお金はパパとママに貰ってきてるかな?」なんて、憐れむように地域のボランティアをやってる婆さんが俺に言ってきたとき、俺は全てを理解したが出久はまだわかってなかったんだろう。「かっちゃん……?」と不安そうに俺を覗き込んできた。頬に集まる熱に、このチケットだけじゃ入れないんだって現実突きつけられて、俺は八つ当たりするように狼狽える出久の手を引っ張って駆け出した。恥ずかしかったんだ。漢字だって人より早く読めるようになってたはずなのに、出久だけでなく俺も「割引券」の文字に気づかなかった。
「かっちゃん……なんでかえっちゃうのっ……ぼく、えいがっ……みたがっだ……!」
いよいよ出久の泣き声が大きくなって、夕焼けに照らされる帰り道に響き渡る。なんでわかんねえんだよ、見れねえんだよ。俺は察しの悪い出久に苛立ってその手を離した。出久は急に離された手を不安そうに見つめると、また繋ごうと俺の方に手を伸ばしてきた。俺はその手を振り払い、出久を突き飛ばして走り出す。二人分の割引券が、日が暮れて吹き始めた風に乗って手の届かない所へ舞い上がった。出久は「まって……!」と俺にだか紙切れにだかわからないが叫んでいたが、背を向けた俺にはもう関係ないと、振り切るように足を動かした。
ああ、馬鹿だなあ。俺は悔しくて悔しくて、泣いたとこを出久にだけは見られたくなかったんだ。
映画、二人で見たかったよな。
*
「いずく……」
俺は覚醒した意識のもと何度か瞬きすると、寝落ちする前と違って真っ暗な室内に目を擦る。身体の上にも下にも掛け布団が敷かれている状況に一瞬首を傾げたが、すぐに思い当たる理由に気付き上半身を起こした。隣の布団を見る、一切の乱れなく白いシーツ敷かれており目当ての人物は居なかった。「いずく」ともう一度弱々しく呟けば、障子戸で閉じられた広縁から「かっちゃん?」と俺を呼ぶ声が聞こえて安堵した。すくりと立ち上がり戸を開けば、広縁に置かれた椅子に座り膝を抱え、電気も付けずに出久がそこに居た。月明かりが入り込んではいたが、昼間は綺麗に見えていた太平洋は真っ暗で、細く開いていた窓から波の音だけが聞こえた。
「おはよう、かっちゃん」
「何時間寝てた」
「二時間くらいかな」
思ったより時間が進んでいなかったことに胸を撫で下ろし、俺は出久の向かい側にある椅子に腰を下ろした。出久は抱え込んでいた膝を解放し、それによりはだけた浴衣の合わせを直していた。チラと見えた膝と太ももの白さが月明かりに浮かんで、俺は自らの喉の奥で鳴った飲み込んだ唾の音を聞いた。
「ここのスペース、なんて言うか知ってる?」
「広縁」
「すごい! 僕知らなくて、さっき検索した」
かっちゃんは昔から僕の知らないことを知ってるよね。
出久が何気なく言った言葉が、先ほどの夢と重なって不意に俺は泣き出したくなった。俺だってお前が知らないこと、いっぱいあったんだ。ただ、それをてめェにだけは知られたくなかっただけで。
「あのさ、旅行……急に誘ってごめん」
「出久のやりたいことに使えって言ったのは俺だ」
「うん」
「……なんかあったかよ」
窓の外から、大きい波が岩にぶつかる音がした。俺は出久が話しづらそうに、それでいて話したそうに浴衣の帯をいじるのを見てその手の行く末を辿る。まさか解くのか?解いてしまって、その肌を俺に――と思考して、その考えに頭を振った。なぜそうなるのか、俺は引き攣る頬を気取らせぬよう軽く咳払いをした。思えば両親以外に二人きりで旅館に泊まるなんて初めてだった。ましてやこんなにしっとりとした夜を出久と過ごすことになるとは、数時間前に本気バドミントンをしていた頃には想像もつかなかっただろう。
「この間、インターン先で……死にかけた――」
「……ハァ!?」
俺が椅子から腰を浮かせて詰め寄ると、出久はどうどうと俺を両手で宥めるジェスチャーをした。しっとりした夜だなんて言えなくなった雰囲気に、俺は鼻から「フン」と空気と共に怒りを吐き出してまた椅子に戻る。
「怪我は」
「あの、死にかけたのは僕じゃなくて先輩ヒーローで」
「ハァ〜〜〜!? 紛らわしいんだよ!」
「最後まで聞かなかったのかっちゃんでしょ!」
出久はまたもはだけそうな浴衣を直して座り直すと、今度は足を組んで柔らかそうな筋肉に包まれたふくらはぎを晒した。どうして浴衣の合わせを直す癖に足は気にしないのか俺が理解に苦しみ歯軋りをしていると、出久は「ごめん」と何に謝っているのかわからない謝罪をしていた。出久が死にかけた云々はどうやら俺の早とちりだったようだが、しかしそれがどうして旅行に繋がるのか?俺の疑問がわかったのだろう出久が「走馬灯」と一言呟いた。
「君の走馬灯が欲しかった」
「は」という間抜けな音は俺から発せられたと思う。出久が言うには、先輩ヒーローが病院で意識を取り戻した時、走馬灯を見たと言っていたらしい。今までの大切な思い出が一瞬で駆け巡る中に、家族や友人が居たそうだ。
「君との思い出は苦いものも多いけど、今更だけど、走馬灯になる思い出が欲しかった」
腹が立った。どうしようもなく腹が立つ。やっぱりこいつとは分かり合えない部分が多すぎた。誕生日プレゼントに、死に際に見るための俺を求めたなんてふざけてんじゃねェ。
「嫌だ」
「え……」
「嫌だっつった」
大体、こんなたった一回の旅行が走馬灯に出てくるわけねえだろうが。走馬灯なんて意外としょうもない一瞬ばっかに決まってる。忘れもんして走って帰った通学路だったり、スーパーの安売り発見していつもより機嫌がいいババアの顔だったり、偶然レアが当たったおまけカードだったり、まあそんなとこだろ。少なくとも俺の走馬灯にお前が居ないなんて有り得ねえのに、こんな旅行があったって無くたって、それがどんなしょうもない出来事だったって多分そこにいるんだよ。
「せいぜい、しょうもない人生送ってろ」
この胸のイライラも腹のムラムラも抑えるには風呂だ、風呂に入るしかねえ。
立ち上がる俺を出久が「ちょっと」と引き留めたが、俺は「風呂」と吐き捨て広縁から出た。特別に強請らないと手に入らない思い出になるつもりはないんだよ、俺は。お前が死ぬ時に「しょうもない人生だった」って言う景色にさえ入り込んでやるのだと、俺はきっと今日は出番の来ない哀れなコンドームを旅行鞄の奥底に仕舞い込んだ。
走馬灯ハイジャック