キスに味なんてないのに

 
高校生かっちゃん×社会人デク
個性のない社会。現代パロの小話です。

 

 

 最寄り駅の一つ前の駅で降りた俺は、同じ路線とはいえ普段降り立つ事の無い駅に一瞬足を止めて構内案内図を見上げた。西口と東口があるが、かなりこじんまりとしたその駅で迷う事は無く、俺は目当ての東口に向かうと、いわゆる裏口にあたるのだろう東口に向かう人は少なく、俺の他には一人のサラリーマンと大学生風の若い男女が居たのみだった。
 駅の出入り口を抜けると見えた駅前は頼りない街灯に雨粒が照らされており、俺はスクールバッグの底から折り畳み傘を取り出した。
 左手に傘、右手にスマホを持って俺は歩き出し、地図アプリで目的地を確認しながら足を進めると、さらに街灯の少ない住宅街へ案内されるがまま目指した。雨だというのにその足取りは軽く、逸る心を抑えるのに必死だ。
 住宅地にポッと現れたコインパーキングの看板には、三十分一〇〇円、二十四時間最大料金七〇〇円の文字が明るく照らし出されている。駅から歩いて十分程度にしては安いコインパーキングだが、停まっている車は一台のみだった。
 俺は燃費の良さが売りの青いコンパクトカーが駐車場の一番奥に停まっているのを確認し、堪えきれず口角が上がるのを感じた。折り畳み傘を閉じながら一歩ずつ踏み出すと、水溜まりに気付かずローファーの爪先を濡らした。
 俺は壁に向かって前進駐車している車の助手席側の扉を開けようと手を掛けたが、開扉されずに空振ってドアを何度かガチャガチャと手前に引いた。雨に濡れた窓から内部が良く見えないが、運転席の緑色が焦って手元のロックを解除しているのがぼんやり見えた。
 ガチャリと軽いロック解除音が鳴ると、俺は舌打ちとともに勢いよくそのドアを開いた。

「デクてめェ! 鍵かけやがって!」
「ごめんかっちゃん! 怒るのは後にして早く入って! 雨が!」

 俺の手から折り畳み傘を受け取りながら、デクは慌てて自分の鞄から薄手のハンカチを取り出して、甲斐甲斐しく俺の髪の毛や顔を拭いた。きっと、いつまでもこいつの中では「かわいい年下の幼馴染」「僕が守るかっちゃん」なのだろう。この春から高校生になった俺は、既にデクと同じ背丈になったというのに、だ。
 デクこと緑谷出久は俺の家の近所に住んでいる、所謂「近所のお兄さん」で俺が物心つく頃には既に俺のことを「かっちゃん」と呼んでその手を引いていた。大学から都心で一人暮らしを始めたデクだったが、この春から地元の銀行に就職し、実家に住みながら通勤しているらしい。
 「らしい」というのは、俺はついこの間までそのことを知らなかったからだ。もう五月も終わる頃の登校途中、デクがひょっこりと路地裏から顔を出したのだ。俺が言葉を失うのを知ってか知らずか、デクのことだから後者だろうが、俺の神経を逆撫でる締まりのねェ笑い顔で「あれ、かっちゃん?」だと。
 「安月給だから実家暮らししないとね」と言って、のこのこ地元に帰ってきた木偶の坊。きっと大学四年間、静かに帰省しては俺を避けていたはずだ。

 俺がスクールバッグを後部座席に投げ入れ助手席にやっと落ち着くと、デクは薄手のハンカチで吸い取りきれなかった水分をワイシャツの袖で拭っていた。勢いをつけて閉められたドアで密閉された車内は、先程よりも強くなった雨の音を遮断して妙な静けさがあった。フロントガラスに滴る滝のような雨筋に、俺はまるで水中にいるようだと感じた。

「光己さんに聞いてた時間より早く着いて良かったよ。かっちゃんがもう一本早いので来たら、濡れ鼠になるところだった」

 昔から俺の母親に滅法弱いデクは、今日も「約束」を律儀に守っている。「勝己のこと、よろしくね」なんて、ガキのころに言われたその常套句を真に受けているのだ。あの日、最寄り駅から自宅まで歩いて二十分ほどを、傘を忘れた俺が文字通り濡れ鼠になって帰宅しているのを見つけたデクの取り乱しようはひどかった。それからというもの、ババアと連絡を取り合い、雨の日に限り俺を車に乗せて家に送り届けることにしたらしい。まったくお人好しにもほどがある。新入社員だというのに、雨の日だけは残業を断って来ているんだと、なんとも健気、いや、傑作だ。
 俺が一つ前の駅を指定し、少しでも長く一緒に帰ろうとしていること、気づいているくせに。

「だいぶ拭き取れたかな? かっちゃんシートベルト締めて、出発するから」

 デクがエンジンをかけようと伸ばした手は、空振って宙に浮くことになった。言わずもがな俺がその腕を掴んだからだ。運転席に身を乗り出してデクを正面から覗き込み、ゆっくりと腰を浮かせてさらに近づく。デクは軽く震えた唇を真一文字に引き結ぶと、捕まれた右手を軽く揺らして「離して」と言った。俺はお望み通りデクの右手から手を離すと、デクは予想外だったのかその大きな目をさらに大きくさせていた。ほらな、その一瞬の油断がデクがデクたる所以だというのに。俺は自由になった左手で、そのまま運転席の横にあるリクライニングレバーを勢いよく引いた。

「イデッ」

 勢いがつきすぎたせいか、デクは後頭部をヘッドレストにぶつけたようで痛みの声をあげている。俺はデクの太ももの上に完全に乗り上げ、仰向けにならざるを得なかったデクを見下ろした。燃費の良さが売りのコンパクトカーは、大の男二人が重なるには些か小さすぎるようで、天井が頭にぶつかるのを避けるためだ、と自分を正当化しながらデクの方へ倒れていく。折り重なった二人を窓の外から覗き込めば、きっと車内で何かしていると思われてもしょうがない格好だ。何かとはもちろんナニだ。
 シャツ一枚を隔てた先にある、人間の肌の温かさに火傷しそうだ。ボンネットに叩きつけられる雨音が、遠く聞こえる。ここはきっと深い深い海の底なのではないかと錯覚するくらい、暗い住宅地に光るコインパーキングの灯りから隠れた俺たちは、真っ暗な車内で息を潜めた。デクの耳もとにかかる癖毛が俺の頬に当たるのがくすぐったくて、俺がその髪を息を吐いて軽く揺らしてやると、デクは急に俺の肩を掴み引き剥がした。

「…………」
「かっちゃん、危ないから降りて、シートベルト締めて」
「……なんで」
「ナンでもカレーでもないよ、僕を未成年淫行で捕まらせるつもり?」

『銀行員、コインパーキングで未成年に淫行!? 二十四時間七〇〇円の格安ラブホ――夜は《淫行員》だった--』
 デクが茶化すように言った週刊誌の見出しのようなソレは静まり返った車内で虚しくスベり倒した。デクはピクリとも笑わない俺に焦ったのか自由になった右手で頬を掻いている。デクがこの雰囲気を壊すためにわざとおどけているのが手に取るようにわかった。昔から年上の癖にそういうのが下手くそなやつだった。

「淫行すんのは俺だ」
「それでも、君が未成年だから僕が捕まるんだよ」
「同意だったらいいんだろォが……俺の気持ちは四年前から変わってねェ。もう背だってデクよりでかくなった」
「あのね、あの時の「大きくなったら」は物理的なことじゃなくて――」
「ガキ扱いしてンじゃねえ!」

 きっとこんなことで癇癪を起こすようなヤツ、ガキに他ならないことはわかっていた。俺の方が上に乗っているにもかかわらず、デクは俺を「しょうがない子」というように頭を撫でた。

「四年前ね、君に告白されて、こわかった」
「……こわい?」
「だって、あんな子どもの言う告白、信じられないじゃないか。小学生の子なんて、次の日には親友も変わってるよ」
「俺がッ……ンなこと」
「こわかったのは、嬉しいと思っちゃった自分。だって、君は中学、高校、大学ってきっと魅力的な人にたくさん出会うんだ。それなのに僕に告白してきてさ……いつか僕が必要じゃなくなることなんて目に見えてた」

 随分勝手な言い種に、俺は目の奥が熱くなるのを感じた。それは昔から変わらない涙が溢れる前兆だ。俺がどんな気持ちで、大学から東京に行ってしまうお前に告白したと思ってんだ。大きくなったら――それを信じて、帰ってきても顔を見せないお前を待ってたと思ってんだよ。

「俺は、まだまだ、てめェにとってガキなんか……」
「うん、ガキだよ」
「……っ」
「だから、いっぱい色んな人に出会って、色んな経験して、それでも僕がいいって言ってくれるなら、もう一回言って」

 そしたら、今度は信じてあげるから。
 デクはそう言って力の無くなった俺の体を起こし上げた。頬に伝う水っ気が冷たくて、俺は水分を吸って気持ち悪いワイシャツの袖を押し当てて拭った。
 いつの間にか雨は止んでいたし、深海のような車内はただのコインパーキングの一画にすぎなかった。

「ほら、かっちゃん、そこの自販機で小銭崩してきて。好きなの選んで飲んでいいから」

 そう言ってデクは、先程までの雰囲気を吹き飛ばすように俺の手を取って千円札を一枚握らせた。ほらな、ツメが甘いんだよ、そこがデクがデクたる所以なのだ。

「……んぅ……!」

 俺は掠めるようにデクの唇に自分のソレを重ねると、目の前のまんまる瞳が見開いているのを満足気に見返して笑った。唇を離してもなお、呆気に取られたデクを置いて車の外に出た俺は自販機に向かった。上等だ、上等だよ。思えば休憩二十四時間最大七〇〇円のラブホなんて、格安すぎて訳有りホテルかっての。
 俺は折り曲がった千円札を自販機に何度か入れ直して、全てのボタンに色がついたのを見てしばし考える。クソ、俺が大人になったらなァ、ラブホの自販機でエゲつない玩具買っててめェに使ってやる。俺が鼻息荒く意気込んでいるとは露知らず、赤くなったり青くなったり忙しいオーナーを乗せたコンパクトカーはコインパーキングの隅で俺の帰りを待っている。
 俺はいつも飲んでいる緑色の炭酸飲料を押そうとしたが、あの唇の感触を強烈な炭酸が上書きしてしまうのではないかと思い、いつもは買わない天然水を選んで押していた。自販機前で一口飲んだ天然水は、思っていたより甘く感じた。

 

 

 キスに味なんてないのに